里本庄
【さとほんじょう】

旧国名:越後
石川右岸流域。地名は小泉荘の本荘に対する里本荘,すなわち加納の地の本荘か。小泉荘は藤原氏一門中御門家の荘園であったが,鎌倉期に秩父氏が地頭として入ったことから,本荘を追われて,相伝の免田30町をこの地に保ったものかと考えられる。昭和12年西方の丘陵字家ノ上から,藤原宗清・同清光の刻銘ある青銅製経筒が発掘された。宗清は中御門家8代宗冬の子で,弟と考えられる冬定は建武4年56歳で没している。室町期に入ってからは本庄氏の支配地となり,天文8年本庄房長の出羽庄内へ出兵の留守中,居城の村上城は弟小川長資によって奪われ,脱出した房長の妻は当地でのちの本庄繁長の千代猪丸を生んだとされている。字家ノ上には南北朝期の板碑が2基残っている。なお,前記経筒は陶の外筒に納められ,さらに素焼壺に入っており,ほかに刀子3本(いずれも腐食)が出土した。白山神社境内には室町期の石の神像がある。
【里本庄村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【里本庄(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7073484 |