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高田藩
【たかだはん】


旧国名:越後

(近世)江戸期の藩名。頸城(くびき)郡高田に居城を置く譜代藩。慶長15年徳川家康の六男松平忠輝が信濃国川中島から堀忠俊改易後の福島城に入ったが,やがて忠輝は新城を南方8kmの頸城平野の微高地菩提ケ原(一帯の呼称は高田)に築くことにした。築城は,幕命で国役普請となり,仙台藩主伊達政宗を普請総裁に加賀藩主など陸奥・出羽・越後・加賀・信濃・甲斐の計13大名の担当で工事を進め,慶長19年7月竣工,翌月忠輝はこの新城へ移り高田藩が立藩された。以後廃藩置県まで数年間幕府領であった時代を除いて257年間続くが,藩主はいくつかの変遷をたどった。松平忠輝(松平越後少将家)は越後国一円と信濃国川中島を所領とし,高60万石といわれるが,この高については30万石から75万石までいくつかの異説がある。元和2年忠輝は改易となり,在封はわずか2年間であった。その原因については,忠輝生来の狂暴性や大坂の陣における怠慢などが「藩翰譜」以来伝えられているが,真相は忠輝が幕府の外交政策に反しキリスト教や外国貿易に関心接触を持っていたためとの説がある(「コックス日記」に依拠した忠輝会編「松平忠輝」)。同年忠輝に代わって入封したのは酒井家次(譜代)で,上野国高崎5万石から10万石に加増されて高田藩主に任じられた。所領は頸城郡の約半分と魚沼郡13か村,刈羽郡37か村。元和4年3月15日家次が死去するが,その4日前の3月11日信濃国松代へ転封の命が出ていたので,長子忠勝が松代へ移る。在封1年半の短期間であった。同年酒井家と交代で松代から入部したのは家康の孫にあたる松平忠昌(松平伊予守家,親藩)で,石高25万石(24万石ともいう),領地は頸城・魚沼・刈羽3郡の大半。寛永元年忠昌は治世6年余で越前国北庄(福井)へ転じた。同年忠昌と交代で北庄から入封したのは,松平越後中将光長(親藩)で,石高26万石。所領は,延宝7年越州四郡信州逆木郷高帳によれば,頸城郡一円685か村・13万9,071石余,刈羽郡117か村・4万3,748石余,三島(さんとう)郡54か村・1万5,513石余,魚沼郡236か村・5万9,769石余,信濃国更級郡川中島逆木郷13か村・5,193石余,合計1,002か村・26万石余(県史資料編6)。光長の治世は57年余に及び,領内の施政は重臣に任されたが,はじめは家老小栗正高が中心となり,寛文5年の大地震で正高が圧死すると,その子正矩(美作)が父の跡を継いで筆頭家老となり藩政を動かした。小栗父子の積極政策により,高田開府以来の城下町は一段と整備され現在の市街形態のもとを作り,河村瑞賢を招いて直江津港を一新。また関川舟運の飛躍的改善に尽くし,中江用水・西中江用水を通して頸城平野の水田に配水し,新田開発を積極的に助成し,広大な耕地を造り出しており,さらに魚沼地方の銀山発掘も美作の業績である。その結果,藩の財政は強大になり表高26万石が内高36万石に及び,城下の商工業は活気を呈しその繁栄は最盛期を迎えた。しかし,藩勢隆盛の裏では,有力な町人・農民から高田藩最初の御用金を徴収し,一般農民からは窓役・鍵役・箸役など小額の役銀を取りたてたため,領民は「越後様の重税」と恨んだという(牧村村誌)。重臣のなかにも美作の積極政策に不満をもつものが生まれ,これが激化して延宝7年1月反美作派530人余が美作屋敷に押しかけた。いわゆる越後騒動の勃発である。美作は家老職を辞し,いったん事態は収まったが,同年4月争いは再燃し,延宝9年将軍綱吉の親裁により,両派に切腹・流刑などの判決があり,藩主光長は騒動収拾能力の欠如を理由に城地を没収され,一時繁栄を誇った高田藩はつぶれた。この改易で幕府領となった遺領は,以後4年間勤番支配となったが,この間の天和2年遺領の検地が施行された。いわゆる天和検地で,幕府が全国の模範とする目的で行ったもので,その後明治維新まで頸城・刈羽・三島・魚沼4郡の越後家全遺領では田制の基準となった。貞享2年稲葉丹後守正往(正通ともいう。譜代)が相模国小田原から10万石で入封し,当藩は再び立藩された。所領は頸城・刈羽・三島3郡のうち10万2,000石で,以前高田藩領であった刈羽郡の村は大窪・剣野の2か村を除いて再び高田藩領となり,魚沼郡はこれ以後高田藩領を離れ,高田藩領は頸城郡のほぼ半分を主体とするものとなった。越後中将家に比べると小藩で,治政は縮小され,諸郭を廃して城地を狭め,家臣町人の減少で空家になった屋敷跡を開墾して田畑とし,有租地として藩の財源にもなった。元禄14年正通は佐倉へ転封となり,同年戸田忠真(譜代)が入れ替わりに佐倉から入封。石高は6万7,850石で,所領は頸城・刈羽両郡のうち5万7,850石,ほかに河内国のうち1万石であった。宝永7年忠真は治世9年余で下野国宇都宮へ転じ,同年伊勢国桑名から松平越中守定重が11万3,000石で入封した。この家は代々越中守に任じられることが多く,松平越中守家と称されたが,定重のあと定逵・定輝・定儀・定賢と5代にわたって31年間在封した。所領は頸城・刈羽・三島・蒲原4郡のうち。享保7~10年に頸城郡の幕府領で起きた質地騒動では,幕府領を預けられて騒動鎮圧を命ぜられた藩主定輝が蜂起農民を捕え,磔刑以下100余名を処刑して騒動を収めた。その功が認められ,寛保元年定賢は陸奥国白河へ栄転した。なお,この際に前代高田藩領で越中守時代には預地であった刈羽郡の一部が同家の領地となり,陣屋を柏崎に置いて治めた。文政6年越中守家が伊勢国桑名へ移ったのちも柏崎陣屋は存続し,北越戊辰戦争には旧幕府軍の拠点となる。ところで,寛保元年松平越中守家に代わって播磨国姫路から榊原政永(譜代)が15万石余で入封した。榊原家は政永のあと政敦・政令・政養・政愛・政敬と6代,130年間在封し明治の廃藩置県まで支配した。拝領した所領は,頸城郡内に6万7,484石余,陸奥国白河・石川・田村・岩瀬の4郡のうち8万4,636石余(浅川陣屋)。榊原氏にとっての統治上の難点は越後と奥州に所領が分かれ,かつ城付領の越後国内より奥州分の方が高が多かったことで,藩では安永年間頃から奥州領を上知し代地を高田城の近くで拝領したいと幕府に願い出ていたが聞き入れられなかった。ところが,寛政10年阿武隈川上流の社川流域の農民約1,000人が大庄屋以下村役人宅など89軒と2か寺を襲って打ち壊し,いわゆる浅川騒動が起こったが,浅川陣屋ではこれを鎮圧できず,白河・棚倉・三春・二本松の4藩の援助で鎮めることができた。この遠隔地に起きた百姓一揆を契機に,藩はさらに強く村替えの要望を幕府に訴え,やっと文化6年高田藩が佐渡の海岸防備に尽力することを条件に,奥州領のうち5万石余を上知し,代わりに頸城郡内で同高の幕府領を受け取る村替えが実現した。これにより藩領は頸城郡で約12万石,奥州領3万石余となり,奥州領の陣屋を浅川から白河郡釜子(かまのこ)に移した。「旧高旧領」での藩領は,刈羽郡1村・303石余,中頸城郡496村・11万1,415石余,東頸城郡12村・1,224石余,西頸城郡108村・1万2,198石余の合計617村・12万5,142石余(県史研究15)。幕末,高田藩は長州攻めの先鋒をつとめて敗退したが,北越戊辰戦争では官軍の先導となって長岡城・会津若松城の攻略に参加した。慶応2年藩校修道館が対面所跡(現榊神社)に設立されたが,明治2年奉行所跡(現大手町小学校)に移された。明治2年の版籍奉還で藩主は高田藩知事となり,前記対面所跡で治政を執ったが,そのとき封土の物成は5万石に満たず(奥州領からの移入不可能のため),小藩に格付けされた。当時の士族621人・卒1,258人の計1,879人。高田城下の人口2万余。領民20万余(高田市史)。同4年7月14日廃藩置県により高田県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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