鹿田荘
【かだのしょう】

旧国名:越中
(古代)奈良期から見える荘園名。射水(いみず)郡のうち。東大寺領荘園。郡条里では15条・16条に位置する。鹿田荘は史料的には「鹿田村」としても現れるので,「荘」と「村」とを統一して理解することが必要であろう。鹿田荘としては天平神護3年2月11日の「民部省符」(東大寺文書/大日古18)に「鹿田庄新応堀溝池一処 長九十丈,広四尺,深二尺」と見えるのが初見。つづいて,同年5月7日「越中国司解」(同前)にも鹿田荘地29町3反100歩(神分1反・定29町2反100歩)と見える。以上は奈良期の文献に鹿田荘として見える場合であるが,「鹿田村」としてはすでに天平宝字3年11年14日の「越中国諸郡荘園惣券第一」(同前)に,鹿田村地29町3反100歩(東南公田・西石川朝臣豊成墾田・北法花寺溝)開田22町4反220歩・未開6町8反240歩と見える。これは,天平勝宝元年に野地として占定された以後の東大寺による開田状況を示している。つまり,総田積29町3反余のうち開田は約77%の22町4反220歩を占めた。鹿田村地=鹿田荘は射水郡桃田里(同下里)・小家田里(同下里)から構成されていた。四至は東南が公田(百姓口分田),西に石川朝臣豊成地が展開し,北に法花寺溝が流れるなど周囲の開発も進んでいたことが知られる。荘域の四至に名の見える石川朝臣豊成は天平17年に式部大丞(正六位上),天平勝宝6年に従五位下・右少弁,天平宝字2年に従五位上,同3年に左中弁に任じられた人物で,天平勝宝年間から天平宝字年間にかけて参議・中納言・大納言を歴任した石川年足の弟であった。豊成の私有地が越中に設けられた背景には,天平勝宝元年以来紫微大弼の地位にあって藤原仲麻呂と結んだ兄年足の政治的立場が有効に作用していたと見られる。また,北の法花寺溝田は神護景雲元年11年16日の「鹿田村墾田地図」の端書四至に「北京□□寺溝」とあるので,大和国法花寺(京法花寺=奈良県)の溝や田が存在したことが明らかとなる。このように同荘周辺には貴族や寺院の進出が顕著であった。神護景雲元年11月16日の「越中国司解」(東大寺文書/大日古18)によると鹿田村地30町3反20歩,見開22町8反200歩(奉神1反・定22町7反200歩)未開7町4反180歩とあり,また同日付の墾田地図(同前)には四至を「□(東カ)南百姓口分墾田,西石川朝臣豊成墾田,北京□□寺溝」と記している。先の四至と比較して,東南に百姓墾田が加わっているほかは,西・北側の状況に変化は見られない。これに対し,同荘の田積は全体で9反280歩の増加を見るが,その多くは未開地であった。神護景雲元年時の特色としては,見開田22町8反余がほとんど定田として耕営(佃作)されており荒田は見られなかったこと,したがって耕地の経営は比較的順調に維持されていたことが知られる。この理由は同荘を取り巻く水利条件と耕作労働力に恵まれていたことにあろう。水利については,西から東へ「法華(花)寺溝」が走り,荘域内でさらに引水・排水用の溝に接続している。しかも同荘の東・南には百姓の口分・墾田が分布していたので,鹿田荘の賃租や雇傭においても労働力編成を行いやすかったであろう。同荘の具体的な経営を考える上で注意したいのは,域内の東部(小田下里3行2)に「三宅所四反」が設けられ,さらに東北角(同里2行4,3行4)に「物部石敷在家」が位置していた点である。前者の三宅所は荘園管理事務所である荘家を含み,荘所(しようしよ)とも呼ばれた。この場合,地4反の中にその経営を展開する上で必要な倉・屋が建てられていたと考えられる。三宅所は射水郡では須加(すか)・鳴戸(なるこ)荘にも見えるが,収取や運搬の都合から交通の便のよいところが選ばれた。鹿田荘の荘所も荘域近辺に設けられ,荘内中央を流れる用水路にも近い。また,近くに神社が位置しており,これは豊耕祭祀のための神社の維持が荘所の機能と密接な関係を持っていたことをうかがわせる。それは新川(にいかわ)郡丈部(はせつかべ)荘において荘所内に「味当社」という神社を包括していた場合と似ている。当時の農村においては農耕と祭祀とは緊密な関係を持っており,春・秋の二祭を中心にして神祇信仰は維持された。その表れが荘域内における神社の運営であり,地域の名神(官社)に対する神田の設定であったろう。鹿田荘内には,櫛田(くしだ)神に対し神田1反を設けているが,それは射水郡の名神の中でも櫛田神社が鹿田荘の近くに位置したことによるのであろうか。後者の「物部石敷在家」の場合,荘域内の一画に民間人の「在家」が含み込まれていた点は重要で,鹿田荘の経営に何らかのかかわりを持っていたことを示しているのであろう。ここで推測できるのは,田使(でんし)として荘所に関与したかあるいは荘所に対して一定田積の耕営を請け負った場合などであるが,いずれにしても実際の労動力を動員する上でこうした地方の有力農民の力量が重視されたのであろう。鹿田荘はその後,天暦4年の「東大寺封戸荘園并寺用帳」(東大寺文書/平遺257)では31町3反34歩,長徳4年の「東大寺領諸国荘家田地目録」(東大寺文書/平遺377)では31町1反34歩とあるが,すでに荒廃状態にあった。さらに寛弘2年8月になっても鹿田荘などは地子を怠納していた理由で東大寺から勘納使が送られている(東大寺符案/平遺2-441)。その後,仁平3年の「東大寺諸荘園文書目録」(守屋文書/平遺2783)には同荘絵図として「一帖(布)天平宝字三年 一帖(紙)神護景雲三年」をあげているが,それらの絵図は現存していない。鹿田荘の現在地比定は明確ではないが,同荘が射水郡15・16条であるところから復元条里に当ててほぼ高岡市東南部に推定でき,現在の出来田・井口本江・二枚橋・蓮花寺の地域に想定する説(高岡市史)がある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7080703 |