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五箇山
【ごかやま】


五ケ山・五架山とも書いた。東礪波(ひがしとなみ)郡の山間,岐阜県飛騨との境の地域称。中世以来,郷村的村落連合の名称として用いられ,北は栃原(とちはら)峠(750m)・杉尾峠(970m)・朴(ほお)峠(950m)・細尾峠(720m)・小瀬峠(940m)・ブナオ峠(950m)が連なって,平野部の境界をなしている。東礪波郡平村・上平(かみたいら)村・利賀(とが)村にあたる。赤尾(あかお)谷・上梨(かみなし)谷・下梨谷・小谷(おたん)谷・利賀谷の5谷からなることが地名の由来となった。またこれらの谷は真宗教団の講を結び,運命共同体的関係にあり,5の数に符合させた総称名として名付けられたともいう(五箇山史・五箇山研究ノート)。文献上の初見は,永正15年5月の仏像裏書で,「越中国利波郡五ケ山荒山村」とあり,証如上人の「天文日記」にも見える。また赤尾谷などの地名は,天文21年の「十日講越請文」あたりから見られ,史料から推すと16世紀頃から五箇山の名がつけられたものと思われる。平家伝説の多いところで,南北朝・戦国期の武将一族が逃げ込んだ形跡があり,一向一揆の頃真宗寺院が勢力を張ってきた。天正13年前田利長の領地となって加賀藩の支配が幕末まで続いた。貢納は天正16年より銭50貫文,慶長8年より金子22枚,同10年より塩硝(えんしよう)2,000斤が加えられた。元和5年最初の検地が行われた。寛永7年に五箇山の村々の免租が決定(五ケ山御納所方定書)。正保3年五箇山70か村の村高5,864石余は(加越能三箇国高付帳),明暦2年手上免を見るまでに新開8石余が増加しただけで,幕末に至るまで変わらなかった(天保郷帳ほか)。江戸初期から村の変遷は安定しており,加賀藩十村制度の五箇山両組の改編もなく,新村開発もなかった。代銀による貢納のため,塩硝・和紙・蓑・蝋・糸などの加工商品の量産をあげたこと,流刑人が送られたなどに藩政上の特色が見られる。廃藩によって五箇山名は廃止されたが,いまもなお,地域称として通用している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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