高岡
【たかおか】

旧国名:越中
(近世)江戸期~明治22年の町名。射水(いみず)郡二上(ふたがみ)荘のうち。加賀藩領。高岡町奉行支配。庄(しよう)上川・小矢部(おやべ)川の形成する扇状地の扇頂部に位置し,北陸街道が町域の中央部を南北に通過する。富山湾に注ぐ小矢部川河口は,天然の良港で,のち伏木港として整備される。古くは関野・関野ケ原・志貴野などと称した荒野であったが,慶長14年9月,加賀藩2代藩主前田利長が当地に築城,魚津(うおづ)から居所を移したことにより開かれた城下町で,京都の方格状の町割を採用。随臣として浅井左馬を筆頭とする430余人の家臣と,富山・守山・木舟3城下から630余人の商工人が移住。地名は「鳳凰鳴矣于彼高岡」という「詩経」中の一節にちなんで付けられたという。利長の死と,元和元年の一国一城令による高岡城廃城,家臣団の金沢への引き上げに伴い,商工人の金沢・富山移転が行われ,一時衰退はしたものの,元和6年3代利常が,町民の高岡転出を禁止したため物資集散の商都として富山と比肩されるほどに繁栄した。当町は草分けの町人に与えられた拝領地である役町,町人が藩より借り受けた地子町,隣接村地を借り受けて市街地とした請地がある。役町は本町といい無税地。明和8年の「高岡町図之弁」(高岡市史)では御馬出町・通町・守山町・木舟町・小馬出町・旅籠(はたご)町・鴨島(かもじま)町など31か町,地子町には上川原町・大鋸屋(おがや)町・大工町・金屋町など21か町,ほかに本町・地子町両方に属する白銀町がある。安政6年の「高府安政録」では,役町29・地子町19・散町14。その後,いくらかの町数の変動はあるが,近代に入り高岡市市制施行後は68か町と称された。「宝永覚書」による地子地は8万4,666歩。散小物成は御伝馬銀1貫80匁・野役16匁2分5厘・蝋燭役460匁・たばこ役387匁・酒役437匁7分9厘・豆腐役624匁・紺屋役340匁・室屋役130匁・鍛冶役247匁5分・油屋役329匁・長舟役2貫314匁・渡海船役518匁・布判賃109匁7分・他国出漁三歩半口銭15匁2分・鮭流網役銀5匁・麦大豆口銭542匁4分8厘,定小物成としては高岡網役55匁・鮎川役36匁・鱒川役11匁・唐網役6匁・川役2匁などがあった。家数は,慶長14年当時は630軒といい,明和8年頃は,本町家数1,613軒,地子町家数1,704軒,人数1万5,582人の記録がある(高岡町図之弁/高岡市史)。慶長16年,利長により金屋鋳物師が招かれてはじまった高岡銅器は,京都真継家から北国筋鋳物師頭役の辞令が与えられ,加賀藩の保護もあり開町以来の伝統産業として現代に継承されている。また明暦3年魚問屋と煙草座が開設された。特に魚問屋は三州内の魚獲物のすべてを管掌し,寛文3年から新保屋がこの権利を与えられ,明治維新まで越中唯一の魚市場として繁昌した。また当町は射水(いみず)・礪波(となみ)の物資集散の場所として,近代に入ってもその機能は衰えることはなかった。明治9年石川県,同16年富山県に所属。明治22年市制町村制により市制を施行。
【高岡市(近代)】 明治22年~現在の自治体名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7082379 |