長柄町
【ながえまち】

旧国名:越中
(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。明治17~22年は富山を冠称。富山城下。町名の由来は富山藩の長柄の槍組が住んでいたことによる(富山市の町名の由来)。城下南西の端にあり西田地方(にしでんじがた)村に隣接する。延宝2年南の町端に塩硝蔵が建てられた。元禄3年には富山七口の警備の1つとして当町口に門柵が作られた(前田文書)。このほか町端には牢屋もあり,同6年には初めて女牢も建設された(富山市史)。宝永2年7月1日改めの「富山市街古図」によれば,禅宗全慶寺が中長柄町の南端にあり,西方に籠(牢)舎が見える。安永2年の町名書上に散地分として長柄町・中長柄町の名が見え,同8年には中長柄町を含み,1~12丁目があり,家数188,うち本家100・貸家88(町方旧記抜書/県史近世下)。天保12年にも中長柄町を含み丁目数は変わらなかったが,7・9・11丁目には人家がなく上地であった。本家貸家竈数202・人口863,うち男432・女431(富山町方旧事調理/県史近世下)。慶応2年には弾薬製造の蔵2棟が建築された(富山市史)。明治期に入り,中長柄町は1町扱いとなる。明治9年石川県,同16年富山県に所属。同22年富山市長柄町となる。昔より神通(じんづう)川の出水時に浸水の被害を受け,ちなみに明治22年から同44年にかけて,30回もの出水が記録され,特に同29年8月,当町では浸水が天井まで達した(富山市史)。しかし明治35年から昭和10年にかけて神通川改修工事が行われ出水による災害はなくなった。明治42年の戸数203・人口860,うち男424・女436(富山市統計書)。昭和4年の戸数152・人口721。同40年現行の長柄町1~2丁目・堀端(ほりばた)町の各一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7083107 |