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鳴戸荘
【なるこのしょう】


旧国名:越中

(古代)奈良期から見える荘園名。射水(いみず)郡のうち。東大寺領荘園。条里では同郡12・13条に位置した。「鳴戸」は荘名としては天平神護3年5月7日の「越中国司解」(東大寺文書/大日古18)に見えるが,鳴戸それ自体は天平宝字3年11月14日の「越中国諸郡荘園惣券第一」(同前)に「鳴戸村地五十八町三反十歩,東南西北公田,開田三十三町三百十歩・未開二十五町二反六十歩」と見えるのが初見。また同日付の「鳴戸開田地図」(同前)には「鳴戸野地」として見える。これらの史料によると同荘は12条足原(あしはら)里・沢浴(さわあび)里,13条大塩上里・大塩中里・大塩下里にかけて分布し,懇田と野地によって構成されていた。このうち懇田は12条大塩中里・足原里ならびに大塩下里・沢浴里の荘域周辺部に,野地は荘中央部から西部にかけて多く分布した様子が知られる。これは同荘をとりまく水利や労働力などの条件と深い関係をもつものとみられる。その証拠に天平宝字3年「越中国諸郡荘園惣券第一」の四至には「東南西北公田」とあるが,文中各条里の坪付には周辺部に位置した「百姓口分田」が記載されており,公田が剰田とともに口分田をも指していたことが明らかとなる。この場合,口分田は鳴戸荘の南側に多く分布しており,同荘域内の開田地帯と隣接する。それゆえ,この一帯が水利に恵まれ耕営労働力の集中していた地帯であったことがわかる。荘域周辺の口分田や剰田の耕営に参加した農民たちは,それ以外に荘園内の耕作に雇傭されたり,みずから一定田積を賃租(1年契約の賃貸借)するものもあったであろう。また同荘の経営に重要な役割をはたしたと思われる荘所(しようしよ)は,荘東北部の大塩下里に位置した。天平宝字3年の開田図に「三宅二段」と記されるのは,荘所2反の意味であって管理中枢としての施設が建てられていたとみられる。この三宅(みやけ)荘園田積の中に含まれていない点は,鹿田(かだ)荘の場合(三宅所4反)とも同様である。それは三宅(荘所)の敷地がどの程度の規模であれ,その土地は東大寺の佃作の対象にはならなかったからであろう。鳴戸荘の場合,荘域内の三宅のほかに域外にも三宅所が設けられた。これは「三宅所肆反直稲参佰束,在櫛田郷田塩野村,主射水郡古江郷戸阿努君具足」と記され,射水郡櫛田(くしだ)郷塩野村にあった地4反を稲300束の価値で買得したものであった。この反当り価格=稲75束は当時の越前国(福井県)における相場に比べてかなり高い数値を示しているので,あるいはそこに立地した倉・屋等の施設をも含んでいたのではないか。また「主」に古江郷戸阿努君具足の名がみえる。阿努君民については「万葉集」巻19の天平勝宝3年8月5日条に任務をおえて越中を去る大伴家持を送別した射水郡大領安努君広嶋が知られるから,具足も射水郡に伝統的勢力を誇った安努君氏の一族と考えられる。彼は古江郷を本貫地としながらも,櫛田(くしだ)郷に田地経営の一拠点を設け他郷へ進出していたのである。東大寺はこの民間の経営機関を荘所(荘家)に転用し,経営拠点の充実をはかったのである。したがって8年後の神護景雲元年に開田は33町310歩から51町4反40歩に増加し,逆に未開地は25町2反60歩から6町9反220歩に減少した。開田のうちに荒田や川成の占める部分は小さく,約86%は定田として佃作された。神護景雲元年11月16日の「鳴戸開田地図」(東大寺文書/大日古18)によると荘域全体にわたって開発が進み,何本もの用水路が記入されている。また荘域内の大塩下里に存在した三宅所は2反から4反へと拡大しているが,これは鳴戸荘の耕営田積の増加に対応したものである。鳴戸荘は射水郡内で実際の耕営田積が50町余と最も大きく,そこに多大の労働力が投入されねばならなかった。その後,この荘田積は天暦4年に至っても59町8反140歩とほとんど変わっていないが(東大寺文書/平遺257),その経営内容は明らかではない。むしろ,長徳4年・寛弘2年・大治5年等の荘園目録から全く姿を消している状況は,杵名蛭(きなびる)荘と同様になんらかの契機によって東大寺領から離れた可能性をもつ。実質的に退転しても東大寺領として存続していれば,長徳4年の「東大寺領諸国荘家田地目録」(同前)には「庄田悉荒廃」として荘名を記されるからである。鳴戸荘の現在地比定は困難であるが,一説には大門(だいもん)町をあてる説(木倉豊信説)もある。




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「角川日本地名大辞典」
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