西浜町
【にしばままち】

旧国名:越前
(近世)江戸期~明治7年の町名。敦賀町の1町。舟町の南に位置し,西は金ケ辻子町,東は東浜町,南は鵜飼辻子町・三日市町・観世屋町・中橋町の各辻子町。天正21年5月14日付大谷吉継判物(道川家文書)には「浜之町」が見える。「敦賀志」は当町について,天正17年の成立で,道川氏の先代川舟兵衛三郎が茶町から移住したのに始まり,もとは浜の町と称したが,のちに東浜町が出来たため西浜町と改めたと記す。「敦賀雑記」は住民の多くが近郷から移住したことを伝える。なお先の判物には「其津浜之町立替ニ付」とあり,「敦賀志」の天正17年新設説は2,3年後へ延ばすのが適当と思われる。笙ノ川下流に寛永12年架橋された今橋の東橋詰,金ケ辻子町境に続く西浜通は問屋街で,寛文年間には本町通りと称された(寛文雑記)。天和2年には諸問屋のほか,植木屋・切麦屋・蒟蒻麩屋・付木屋・切波屋・表具屋などがあった(遠目鏡)。元禄16年小浜藩は敦賀町の商人に8,000両の献金を要求したが,この時,当町は1,280両を負担。そのうち廻船業者天屋弥三右衛門は茶町の最里六右衛門と並んで1,000両を献金している(角野家文書)。蔵宿などを営む越後屋も当町に居住。敦賀3町老の1家道川家の兄にあたる家で,三日市町から当町に移住したという(敦賀志)。また銀屋惣右衛門は,北国船の船囲いに際し,轆轤を使用して舟を上げ下ろしする独占権を,寛文5年小浜藩から運上銀年600匁の上納を条件に付与された。10人乗船の船上げ賃30匁,下し賃17匁であった(寛文雑記・遠目鏡)。家数は,寛文3年40うち家持36・貸屋4(寛文雑記),享保11年37(指掌録),「敦賀県管轄区分表」では38。明治7年蓬莱町の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7094310 |