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二番町
【にばんまち】


旧国名:越前

(近世)江戸期~明治7年の町名。大野町のうち。二番上町と二番下町に分かれていた。大野城の東,天正年間金森長近によって作られた南北の縦筋6本のうち一番町と三番町に囲まれた地域。七間町を境に南を上町,北を下町とした。通りの中央を町用水が流れ,町はその両側にあった。下町は職人層と日雇い層が多く,店も作った物を並べて売る小店であった。上町は下町より日雇い層が多く,馬もいる農家もあった。家数・人数などは,寛保3年の町絵図では,上町の町高29石余・54軒,下町の町高39石余・77軒,宝暦10年は上町114軒・下町140軒,天明3年は上町67軒・人数542(男266・女276),馬6,下町69軒・人数530(男258・女272),安政4年は上町人数534(男269・女265)・下町人数536(男259・女277),文久3年の人別寄帳控では,上町の家数70(本家60・地名子10),馬9,人数552(男264・女288),下町の家数72(本家69・地名子2・医師1),人数606(男294・女312),慶応3年合わせて134軒。たびたび火災にあい,特に安永4年の大火では,上町(殿町ともに)は本家43・地名子12・借屋58・土蔵2,下町は本家64・地名子15・借屋59・土蔵21が焼失。文政5年の火事では上町は本願寺清水西へ替地させられている。同10年の「おねば火事」の火元は上町の沢屋長四郎(長吉)であったといい,町内は全焼している。下町には大野梅屋人形の匠梅屋治助の店があった。幕末に上町は三番町の大工町から大工たちが移住している。寺院は,安政年間安川開削によって作られた越前万歳の句に歌われた浄土真宗本願寺派教願寺と石灯籠小路角と八間角の中ほどに真宗大谷派円徳寺があった。ほかに同じ万歳の句に歌われた伊勢堂(のち清滝神社に合祀)があった。明治6年の戸数242で,これは横町分を含めたものと思われる。同7年東二番町・西二番町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7094355