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宝慶寺
【ほうきょうじ】


旧国名:越前

清滝川の上流に位置し,南には部子(へこ)山・銀杏峰など標高1,500m級の山々を望む。地名の由来は,曹洞宗日本第二道場宝慶寺の門前に発達したことによる。中世には安楽寿院領小山荘木本(このもと)郷のうちであった。宝慶寺伽藍は弘安元年創建とされるが,その21年後の正安元年10月18日,この地の領主知円(地頭の伊自良氏と伝える)が寄進した寺敷地は,北は阿難祖(あどそ)・味美(あじみ)・部子,南は小山荘領家方堺,東は志目幾(しめぎ)谷・戸鼻,西は小窺鼻を限るとあり(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編),この南と東が門前の堺となるものとみられる。永享12年に宝慶寺は木本郷で寺田2反180歩を有しており,このうち180歩は昔より寄進されている山林などのうちにある山神田だと主張している(天理保井家古文書)。永禄9年7月16日の宝慶寺門前納帳によれば,宝慶寺は門前より米75石2斗7升,代方5貫231文を収納しており,そのほか門前家別80文宛の山手銭は5貫311文とされているから,門前の家数は計算上66軒に達する(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編)。また同帳には「しめき」(志目幾)をはじめとする多くの小字名が記されている。天正2年一向一揆の兵乱で宝慶寺は焼き払われ,寺領も没収されたが,同3年には織田信長から100石が寄進された。慶長4年の竹内久助他連署では宝慶寺村の2名の者に宝慶寺領の小作を命じているが,これが宝慶寺村の初見である(同前)。
宝慶寺村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
宝慶寺(近代)】 明治22年~現在の大字名。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7094967