細呂宜郷上方
【ほそろぎごうかみがた】

旧国名:越前
(中世)鎌倉期から見える地名。越前国坂北郡河口荘細呂宜郷のうち。細呂宜郷が上方・下方の2つに分かれて支配されたもの。細呂宜上郷とも記され,元応2年4月6日の良衛奉書に「細呂宜上郷専当職」と見える(大乗院文書雑々引付2/鎌遺27438)。興福寺大乗院領としての職人(荘官)は,応永21年細呂宜郷公文堀江帯刀,同郷上方政所堀江石見入道であった(寺門事条々聞書/北国庄園史料)。文安2年には堀江越中が細呂宜郷政所であったが,同12年加賀富樫氏の争いにつき闕所とされている(経覚私要抄)。康正2年7月大館教氏が上方の代官職を請負い,翌3年8月に上方政所職・上方公文職の請文を提出して補任されている(大乗院寺社雑事記)。これ以前細呂宜郷公文職は堀江民部丞であったが,康正3年6月細呂宜郷の百姓が堀江氏を認めず強訴したため退去したという。大乗院門跡尋尊はこれを大館氏が仕組んだことかと推測している。長禄2年越前国では守護方の堀江氏と甲斐・朝倉両氏との合戦となり,河口荘の職人が退散したため,同9月細呂宜郷は大乗院の直務となったが,上方については大館教氏がもとのように代官であった。ところが大館氏は年貢無沙汰を重ねたため代官職をやめさせられ,長禄3年8月日野勝光の家来山形加賀入道常祐に替えられた。しかし山形氏も在地支配を十分に行えず,また公方の口入れもあり,大乗院門跡はやむをえず同年11月大館教氏を上方代官に還補した。その後大館氏は寛正2年分からの年貢無沙汰を重ねたため,同4年夏頃から大乗院と大館氏の訴訟になったが,同年9月大館教氏は没し,同11月25日細呂宜郷以下を直務とする旨の幕府奉行人奉書が下された。文正元年7月1日細呂宜郷の専当職は本庄氏,別当職は本覚寺と見える。上方の政所職については明らかでなく空いていたものと思われ,甲斐氏が代官職をねらっていたが,文明元年10月5日には細呂宜公文・政所職直務の由が見える(以上,同前)。その後細呂宜郷上方代官は,明応5年閏2月堀江氏,翌6年7月堀江玉猿殿と見え(同前),戦国末期の越前国春日領大乗院門跡知行分之事には細呂宜上下郷の代官が堀江右近と見える(北国庄園史料)。永禄7~9年に牛屋村・沢村・宮谷村は細呂宜上方夫兵士銭2貫200文を納めている(猪熊文書河口庄勘定帳)。なお天正3年の「越前国相越記」9月9日条には細呂宜郷を堀江治部丞・同右近に配分していたと見える(山田竜治家文書)。細呂宜郷上方の領域については「大乗院寺社雑事記」文明12年8月3日条に「細呂宜郷上方ハ山ヲカク,下方ハ海ヲカク」と記され,細呂宜郷の山寄り(東部)が上方,海寄りが下方に編成されていた。上方の村々については同書文明2年7月14日条の村名の配列から,牛屋・宇弥(禰)一野・青木・伊比政所・宮谷・西方寺・高塚の諸村と判断され,牛ノ屋峠から金津に至る道沿いに広がっている。現金津町の西部に南北に連なる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7094989 |