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吉江藩
【よしえはん】


旧国名:越前

(近世)江戸期の藩名。家門小藩。正保2年6歳の松平昌親が福井藩から2万5,000石分知されて成立。慶安元年「在所」を丹生郡立町郷吉江に願い,ここに居館を構えることを幕府から許された。明暦元年吉江へ初入部し,以後参勤交代にはこの地と江戸を往復するのが例となった。延宝2年頃の「越前吉江給帳」(佐久間家文書)によれば,家臣は足軽などを除いて113人,うち知行取が40人でその知行高が7,850石,扶持米取などが73人で合わせて343人扶持と1,337石とある。藩領は,「正保郷帳」「寛文朱印留」とも福井藩に含められていることもあって,今なお確定しえない。承応年間頃の「御国大絵図」(松平文庫)によれば,丹生郡が牛屋(吉江)・印内・入・西番・杉本・糺・弐丁懸・持明寺・上石田・下石田・気比庄(1,503石余のうち1,359石余,福井藩との相給か)・田中・有田・乙坂・牛越・内郡・朝日(342石余のうち75石余,ほかは幸若領)・上河去・下河去・西大井・浅宮・大王丸(159石余のうち156石余,残りは勝山御領分)・上山中・上海浦の24村で約1万5,301石余,足羽郡は生部(721石余中485石余,福井藩との相給か)・田尻・花守・三尾野村の4村で約1,524石余,坂井郡は岸水・馬場・江上・御所垣内・布施田新・西方寺・姫王・下名・波寄(福井・松岡両藩との相給か,松岡分は3,140石余中901石余)・免鳥浦の10村で波寄村がわからないので2,758石余から4,997石余となり,吉田郡が勝見村1村で634石余,大野郡は森政領家と御給村の2村991石余,南条郡が火打(燧)村1村で287石余とし,これらを合わせると2万1,537石余から2万3,777石余となる。ところが寛文8年2月22日付用水争論取替証文(平井町区有文書)によれば,「吉江御領小泉・田村・下大倉・持明寺・弐町掛・冬島之内,福井御領平村・熊田村・冬島之内,此八ケ村」などとあって上記以外の村が挙げられ,また「壱万石之組頭」として吉江領では杉本村伝兵衛・慶(気比)庄村新左衛門・牛屋村加左衛門と福井領の平村五左衛門の名前がみられる。これを合わせると2万4,043石余から2万6,238石余となり,領知高2万5,000石とはやや差があるが,波寄や弐丁懸(冬島)村の相給分がわからないからである。「御国大絵図」の村高に疑義があるものもあり,なお検討の余地が残るとはいえ,所領としては上記の村々であったといってほぼ誤りはなかろう。なお1万石の組頭とは福井藩の大庄屋度のことであり,分知に当たり同藩の支配機構の一部を踏襲したとみられる。昌親は,参勤交代のほか慶安4年からは兄光通とともに日光徳川家光廟普請手伝いなどの幕府軍役を負担し,寛文2年には石田西光寺に禁制を発布し,上記証文では吉江藩の郡奉行が福井藩の郡奉行とともに僉議を行っており,また延宝元年の村境争論では郡奉行の指示で代官が出張していることも知られ(石田上区有文書),所領が福井藩に含めて記され,支配機構を引き継ぐ部分があったとはいえ,独立した大名であったといわねばならない。延宝2年昌親が吉江領とともに福井藩を継ぎ廃藩。なお昌親は貞享3年再封されて吉品となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7095664