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恵林寺
【えりんじ】


塩山市小屋敷にある寺。臨済宗妙心寺派。山号は乾徳山。元徳2年に鎌倉幕府の要人二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流牧荘の所領を施入して寺とし,夢窓疎石(むそうそせき)を請じて開山とした。夢窓は伊勢の人,弘安元年4歳の時,一家とともに甲斐に移り,同6年9歳で出家,市川の平塩山で空阿に天台を学び,18歳の時南都に出,さらに各地に遊学して顕密両学を学んだが,のち禅宗に帰して建長寺一山一寧らに参究した。嘉元3年31歳,鎌倉浄智寺で師那須雲巌寺開山高峰顕日から印可を受けると,即日甲斐に帰省した。牧荘の領主二階堂氏は浄居寺を建てて彼を迎えた。応長元年春には竜山庵を甲斐に建てて住んだが,僧徒の雲集するをいといやがて浄居寺に移った。正和2年,3歳の甥が浄居寺で夢窓に謁した。のちの普明国師春屋妙葩である。当寺が開創されるのは,浄居寺開創の25年後,夢窓56歳の時である。「夢窓国師年譜」(続群9下)は元徳2年条に「秋九月潜逃帰瑞泉。一衆追至。師閉門避之……次日侵早出鎌倉。往甲州牧荘。創慧林寺居焉。雖為小刹。持規挈矩。若臨万衆」と書き,外護者の名を述べないが,「夢窓国師塔銘」(続群9下)などによって二階堂出羽守貞藤であったことは明瞭である。夢窓の後は弟子満翁明道(まんのうみんどう)らが継いだが,南北朝期には古先印元(こせんいんげん)・明叟斉哲(みんそうせいてつ)・青山慈永(せいざんじえい)・竜湫周沢(りようしゆうしゆうたく)・絶海中津(ぜつかいちゆうしん)ら著名な禅僧が住持した。古先と明叟は文保2年に業海本浄(ごうかいほんじよう)(のちの天目山棲雲寺開山)らとともに入元し,天目山幻住庵の中峰明本に参じて印可を受け,さらに,竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・清拙正澄(せいせつしようちよう)らに学び,嘉暦元年清拙の来朝するに随侍して帰国,夢窓に請われ相次いで当寺に住したが,夢窓になびかず幻住派の人となった。明叟は成田(御坂(みさか)町)の正法寺開山でもある。その他はいずれも夢窓派の法嗣として重きをなした人たちである。特に絶海は義堂周信とともに五山文学の双璧とうたわれた人で,康暦2年10月幕命によって当寺に住すると,京・鎌倉の有名な学徒が雲集して寺屋ほとんどいれる所なく,また禅宴の余暇に法華・楞厳・円覚などの諸経を講ずると僧俗の聴衆は堂にあふれたという(翊聖国師年譜/続群9下)。このように寺は小刹で寺格も諸山にすぎなかったが,東国における夢窓派教団の専門道場として,また徒弟院として有名無名の学徒でにぎわった。しかし室町初期から中期にかけては,住持の世代も寺勢も明らかでない。ただし「蔭涼軒日録」寛正5年4月29日条に「甲斐国恵林寺円亀首座」の名が見えるから,法灯が維持されていたことは間違いない。当寺が再び法灯さん然と輝くのは,16世紀中葉武田信玄が領主となった時である。信玄は惟高妙安・明叔慶俊・鳳栖玄梁・月航玄津・天桂玄長・快川紹喜・策彦周良・希庵玄密ら天下に名の響いた禅僧を招いて住持させるとともに,寺領の寄進などを行って厚い保護を加え,寺運の再興を図った。惟高と策彦は五山派,ほかは関山派(妙心寺派)である。特に信玄が厚遇したのは快川である。快川は美濃土岐氏の一族,長良(岐阜市)崇福寺仁岫のもとで修行,天文20年仁岫が遷化すると同寺第3世となったが,天文の末信玄の招きに応じて当寺に入った。弘治2年には崇福寺に帰住するが,永禄3年,伝灯寺別伝騒動が起こり,国主斎藤義竜と対立して翌4年には尾張犬山の瑞泉寺に出奔した。5月義竜の急死で事件は急転直下解決するが,9月10日の第4回川中島の戦当時は事後処理に忙殺されており,快川が信玄宛に,合戦の大勝を祝し,併せて弟信繁の戦死を悼む書状を送ったのは,8か月後の翌5年5月16日であった(快川和尚書状案,恵林寺文書補遺/甲州古文書3)。快川が希庵の後住として再度当寺に入るのは永禄7年11月で,信玄は直ちに寿牌を安置し,快川に預修入牌の仏事を勤めさせ,当寺を位牌所とした。さらに同年12月1日,信玄は快川宛に恵林寺領寄進状を与えた。その内容は,年貢200貫200文,石米・大豆・粟127俵1斗余,入木並びに湯木共592駄1把,此外瑣細の納物多数,さらに修補領9貫560文,僕・鍛冶・番匠・行堂の恩75貫390文,それに普同庵領を加えたもので,前年に実施された検地の結果が寺領として寄進された。寄進状の末尾には「右,恵林寺叢林の風度を改めて信玄の牌所と為し,一円に進献せしむるの上は,関山一派の規模を執り行われ,仏法御興隆専用なり,然るに於ては師子相承,器量の仁を撰ばれ,御住山のこと万々世に至るも相違有るべからず候」と書いている(恵林寺文書/甲州古文書1)。こうして五山派・関山派の両属から離れて関山一派となり,しかも快川の法系を住持とするよう定められたのである。前年に行われた検地の記録は古くから「恵林寺の青表紙」として知られ,「恵林寺領穀米並公事諸納物帳」と「恵林寺領御検地日記」の2冊から成り,前者は永禄6年10月吉日と表記され55丁,後者は同11月吉日と表記され70丁である(甲州古文書3)。戦国大名の検地を実証する貴重な史料であり,特に兵農分離関係の史料として近時注目を受けている。総検地高274貫556文の内訳は,本成104貫924文,踏出169貫632文,名請人108人の内訳は,惣百姓79人,勤軍役衆17人,御家人衆12人で,惣百姓は踏出分の約7割,勤軍役衆はその全額,御家人衆は検地高の全額を免除された。これは領内の居住者を,もっぱら年貢負担を行う惣百姓(専業農家),一部分年貢を負担し軍役も奉仕する勤軍役衆(半農半武士),もっぱら軍役だけを奉仕する御家人衆(専業武士)の3つの身分に区分したもので,兵農分離の過渡的形態であった。なお12人の御家人衆は9人の寄親に分属しており,1村の地侍を1人の寄親にまとめて専属させないという方針が貫徹されている。信玄と当寺および快川との密接な関係を示す史料は数多い。たとえば信玄はみずからを不動明王に擬して等身大の木像を作らせ寺に安置したという。今明王殿にある武田不動尊がこれである。また戯れに自分は関山慧玄の化現であるといったという。快川の法語に「居士(信玄)又戯曰,我是関山化現也。関山生縁即是高梨,号是関山,諱是恵玄。居士生縁即是山梨,号是機山,諱是信玄。曰生縁,曰号,曰諱,如并付節」(天正玄公仏事法語/大日料10‐15)と見えるが,快川はさらに続けて,これは戯言ではなく真実の語であり,今関山一派の興隆は信玄の崇敬の所以であると述べている。恵林寺殿の法名も生前に信玄みずから号したものという(同前)。またある年の春,当寺の奥上求寺の不動へ参ったあと,快川のたび重ねての誘いに応じて帰途花見に立寄り,「さそはずはくやしからましさくら花さねこん頃は雪のふる寺」と和歌を詠じたのに対し,快川は「大守愛桜蘇玉堂,恵林亦是鶴林寺」と漢詩で和韻したという(甲陽軍鑑第4品)。快川の賛のある寺宝の渡唐天神画像も信玄が描いたと伝えている。その信玄も,天正元年4月12日,雄途空しく信州伊那駒場(長野県伊那郡阿智村駒場)で死去した。享年53歳。遺言により堅く喪を秘し,遺骸は甲府躑躅ケ崎(つつじがさき)の館中に函し,満3年を経て天正4年4月16日,快川を導師として盛大な葬儀を営んだ。葬列のお供は,紼(ふつ)(棺を引く綱)を肩にかけた勝頼以下,一門・家臣の面々,剃髪の衆数百人,僧侶だけでも紫衣の東堂7人,黒衣の長老20人をはじめ全部で千余人にも及んだ。七仏事(法要)の次第は,掛真(けしん)は伊那建福寺の東谷宗杲,起龕(きがん)は円光院の説三恵璨,鎖龕は東光寺の藍田慧青,奠茶(てんちや)は伊那開善寺の速伝宗販,奠湯は長禅寺の高山玄寿,下火(あこ)は導師快川,念誦は圭首座,起骨は駿河臨済寺の鉄山宗鈍,安骨は長興院の大円智円,入室は速伝,陞座(しんぞ)は快川で,導師快川以下分国内の関山派の高僧たちを総動員した未曽有の盛儀であった(御宿監物書状案など/大日料10‐15)。翌17日の初七日忌をはじめとして三七日忌・四七日忌などが次々に営まれ,4月26日には七周忌の法要まで預修して,ようやく寺内に葬られた。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。快川らの読んだ法語は,信玄の偉業をたたえ,切々と逸話を述べて余すところがない(天正玄公仏事法語)。前年5月,三河長篠で織田・徳川連合軍に大敗して武田の衰運はおおうべくもなかったが,勝頼は父を送るに最大級の礼を尽くしたのである。さらに3年後の同7年4月12日には快川を導師に正式に七周忌の法要を営んだ。天正9年9月6日,快川は正親町天皇より大通智勝国師の号を賜った。しかし翌10年3月11日,武田氏はあえなく滅亡し,恵林寺も近江の浪人佐々木氏をかくまったのを理由に4月3日,織田信忠の軍の焼打ちを受け,快川以下長禅寺高山・東光寺藍田ら150余名が三門楼上に焼死するという悲運に遭った。快川が「安禅不必須山水,滅却心頭火自涼」の偈を誦し,従容として火定に入ったのは余りにも有名である。今も三門の傍らに「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」と刻まれた納骨碑がある。悲劇の2か月後,織田信長は本能寺で横死し,甲斐は北条氏との係争に勝った徳川家康の所領となった。家康は織田の失政にかんがみ,武田の旧臣の登用,遺制の尊重,さらに社寺の復旧などに努め人心の収攬を図った。同年7月25日,当寺を訪れた家康は,開山夢窓国師像と武田不動尊が焼失を免れたのを喜び,当分の茶湯料64俵,寺域3万6,400坪,山林1里四方を寄進し,塔頭の岩松院に寺を守るように命じたという。4年後の同14年2月,家康は下野雲巌寺に潜んでいた快川の法嗣末宗瑞曷(まつしゆうずいかつ)を住持に迎え,寺の再興を命じた。末宗はみずから木挽翁と称し,自身も大鋸を引くなど復興に努めた。当寺の中興開山である。その後,加藤光泰・浅野長政らも引き続き保護を加えたが,再領後の家康は慶長8年3月1日,石直しによって改めて小屋敷村のうち29石2斗4升8合を寄進した。寛文11年6月17日,4代将軍徳川家綱は信玄百年忌を迎えるに当たって,30石3斗余を加増し都合59石5斗余が寺領となった(寺記)。信玄百年忌は翌寛文12年4月12日,住持荊山玄紹によって厳修されたが,これよりさき寛文元年8月,荊山は信玄霊殿建立の奉加帳を作って武田氏ならびに旧家臣の子孫に賛助を求めた。寺蔵の「信玄公百回忌奉加帳」には,大名の土屋・内藤・真田・諏訪・米倉氏をはじめ旗本諸氏,甲府宰相や館林宰相の幕下,尾張・紀伊・水戸家臣ら592名が名を連ねている。この浄財で大法要が営まれ,信玄宝塔(現在の信玄の墓)が再建された。宝永元年12月,柳沢吉保は父祖の地甲府城主に封ぜられると,かねて関係の深かった当寺に厚い保護を加えた。まず翌2年4月,本願人となって住持東法純季に信玄百三十三回忌法要を厳修させ,武田不動尊の宝前で「甲斐少将松平吉保家世次第」1巻を書写して奉納,「百あまりみそじみとせの夢の山かひありて今とふもうれしき」の1首を詠進した。さらにその子吉里と2代にわたり,大本堂の改修,諸伽藍の修復などを行い,享保8年吉里は信玄百五十回忌法要を住持大伽道癡に営ませた。勅許を得て甲府八景を制定したのも吉里で,その1つが「恵林晩鐘」である。享保9年吉里は大和郡山に転封を命ぜられ,菩提寺永慶寺は破却,吉保夫妻の遺骸は4月12日当寺に改葬された。当寺には木像吉保寿像・吉里筆信玄軍陣影をはじめ,父子ならびに関係者の寄進した書画・刀剣・什物等多数が現存する(柳沢吉保と元禄文化)。文化年間,当寺は朱印寺領59石5斗余・寺内3万6,400坪・山林方1里,ほかに除地7石9升6合,塔頭15のほか2院1寮,寺内僧39人・堂司2人・下男23人,門前民戸31・口119(男59・女60),馬6,末寺41・孫末寺14であった(国志)。ただし慶応4年7月現在,塔頭などのうち,もと塩山市千野にあって武田信成の菩提寺という由緒をもつ継統院等数院はその実を失っていた(寺記)。明治38年2月11日,本堂以下主要堂宇を焼失,寺宝の数々も灰燼に帰したが,その後堂宇は再建された。第2次大戦中は疎開児童の受入れ,境内の菜園化,松根油採取のための恵林寺山の皆伐などで苦難をなめたが,昭和24年に入山した文堂会元によって寺は復興した。開山堂の移転改築,三重塔の建立,四脚門の解体復元,庭園の整備,信玄公宝物館の建設などの大事業をなし遂げ,今日の盛観を呈するに至った。明治38年の火災を免れた四脚門(中門)は,慶長11年末宗の時,塔頭安楽院主春岳宗栄の力で建立され,切妻造り・檜皮葺,軸部に丹塗りの装飾が加えられているので一般に赤門と呼ばれる。桃山建築の一遺構。来国長銘の太刀一口は信玄の佩用と伝え,柳沢吉保の寄進。備州長船倫光銘の短刀一口は応安2年8月の作。以上いずれも国重文。また庭園は開山夢窓の作と伝え,総面積2,132m(^2),上段は枯山水,下段は心字池を中心とした大庭園,剛健な作風で国名勝。その他木造夢窓国師坐像・紙本著色渡唐天神像図・恵林寺文書(検地帳・見桃録・天正玄公仏事法語等5点)・和漢朗詠集は県文化財。なお市文化財や未指定文化財が多数あるが,幸いに2度の火災に宝蔵2棟が類焼を免れたためで,特に武田氏と柳沢家関係の什宝が多い。境内には武田信玄の墓(県史跡)・柳沢吉保夫妻の墓などもある。昭和44年に開館した「信玄公宝物館」は信玄および柳沢家関係を中心とした寺宝を展観している。なお4月12日の信玄の命日に行われる信玄の墓供養・武田不動尊の開帳の祭りは,「信玄さん」と呼ばれて親しまれている。寺の歴史は「国志」「社記」「恵林寺略史」などにまとめられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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