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久遠寺
【くおんじ】


南巨摩(みなみこま)郡身延町身延にある寺。日蓮宗総本山。身延山と号す。妙法蓮華院とも称す。本尊は大曼荼羅。開山は日蓮。佐渡流罪を赦免になった日蓮は,三たび幕府に法華経の信仰を勧めたがいれられず,文永11年5月17日,甲斐国波木井領主南部(波木井)実長の領地身延山に入った(日蓮書状/鎌遺11655)。実長は日興に帰依していた三男長義の手引で日蓮に深く帰依し,日蓮の身延入山は,実長の熱心な勧めによると思われる(身延町誌)。身延について日蓮は「甲州飯野御牧三箇郷之内,波木井と申,此郷之内,戌亥の方に入て二十余里の深山あり,北は身延山,南は鷹取山,西は七面山,東は天子山也,板を四枚つい立たるか如し,此外を回て四の河あり,北より南へ富士河,西より東へ早河,此は後也,前に西より東へ波木井河中に,一の滝あり,身延河と名けたり」と述べている(日蓮書状/鎌遺13847)。入山1か月後の6月17日に日蓮は3間四面の草庵を造った(日蓮書状/鎌遺12963)。これを当寺の開創とする。日蓮はここで,弟子・檀越を教導し,法華経の読誦と著述とに励んだ。長雨や大雪のためしばしば交通が途絶え,食べ物が底をつくことも珍しくなく,冬は酷寒で,難所も多く往来も簡単ではなかったが,日蓮を慕って登詣する人々が絶えなかった。特に佐渡の阿仏房は高齢にもかかわらず3度も訪れている(日蓮書状/鎌遺13134)。弘安2年3月に寂し,その子藤九郎守綱により当寺に埋葬された(日蓮書状/鎌遺14010)。今も全国の日蓮宗徒の身延納骨の習として引き継がれている。参詣するだけではなく,日蓮の下で修行に励む人々も増えていった。弘安元年には「人はなき時は四十人,ある時は六十人」(日蓮書状/鎌遺13299),翌2年には100余人を超えた(日蓮書状/鎌遺13671)。最初の草庵は建治4年頃には相当老朽化し,修復されたが(日蓮書状/鎌遺12963)再び朽ち,弘安4年新たに10間四面の大坊が建立された。11月24日には開堂供養が営まれ(日蓮書状/鎌遺14510),身延山久遠寺と命名されたという。日蓮は当寺を本拠とし,9年間各地に散在する門下の統制・指導に当たった。また「撰時鈔」「報恩鈔」や多数の書状および大部の曼荼羅本尊を書いている。弘安5年10月13日武蔵国池上の宗仲の館(現池上本門寺)で入滅し,遺骨は遺言に基づき,当寺に納骨された(日蓮書状/鎌遺14715)。翌年正月より当寺は,六老僧を中心に12名の高弟が加わって,毎月輪番で日蓮の墓所の塔を守り,その運営に当たることとなった(身延山久遠寺番帳/鎌遺14781)。しかし3回忌にあたる弘安7年頃には輪番制は崩れてきた。六老僧をはじめとする主な弟子たちは各地の信者の指導をし,幕府の圧力と闘いながら教線の拡張に努めたため,思うように登山することができなくなっていた。そこで六老僧の1人日興が波木井実長とも相談して当寺に常住することになり(日興書状/鎌遺15329,本化別頭仏祖統記/日蓮宗全書),日向も登山してきて,日興とともに経営,門下の育成に当たった(本化別頭仏祖統記)。やがて,日興は日向・実長と対立し身延を離山した(本化別頭仏祖統記・身延町誌)。日向は常住して2世となり,以後輪番制に変わり常住持制がとられる(本化別頭仏祖統記)。実長は日向に帰依し,永仁3年12月「北ハ身延乃岳,東ハ寺平の峯,南ハ鷹取まて,峯のあらしをさかい,西ハ春気をさかい也」と当寺の四至を定めた(日円置文/岩手県中世文書中)。実長没後も引き続いて波木井一族の外護を得て寺基を固める。南北朝期7世日叡は比企妙本寺(鎌倉市),池上本門寺の住持を兼職し,下野国宇都宮妙勝寺住持をも兼ねて四山一主となり,当寺門流の関東進出を果たした(本化別頭仏祖統記)。11世日朝は狭い西谷から現在地への移転拡張事業を敢行して伽藍の整備に尽力し,文明7年ほぼこれを完成させた。また日蓮の遺文を収集し,これらの注釈書,法華経関係の注釈書,日蓮の伝記「元祖化導記」などを著し,身延山内の法規を定め,講学奨励を図った(本化別頭仏祖統記)。日朝・日意(12世)・日伝(13世)を「身延中興三師」と称する(本化別頭仏祖統記・身延町誌)。日伝は,大永2年武田信虎の得度受戒の師となり,甲府に信立寺を開き,当寺を武田氏の祈願所となすことに成功した(本化別頭仏祖統記・妙法寺記)。弘治2年14世日鏡が西谷に善学院を設立し西谷檀林(現身延山短期大学)の基礎となる。永禄元年12月武田信玄から寺内および末寺・門前町にもかかわる禁制が出された(久遠寺文書/甲州古文書2)。身延門前町は西谷から現在地に伽藍を移転した文明7年以降に発生した(身延町誌)。なお永禄9年12月当地を領していた穴山梅雪からもほぼ同様の禁制が下された(久遠寺文書/甲州古文書2)。信玄は当寺に篤い信仰を寄せ,元亀3年4月1万余騎の上杉輝虎軍が1,000騎の勝頼軍を前に一戦も交えず退却したのは,「先に貫主(14世日鏡)自ら」書した紺地金泥経の幌と当寺僧による法華一万部の読誦にこたえた日蓮と七面大明神の力によるものといい,「久遠寺は当家擁護の霊場」であるから武田家の武運長久を祈るようにと依頼した(同前)。一方穴山梅雪は当寺を娘延寿院日厳の位牌所(延寿坊)とし,八日市場・塩沢のほか土之島・寺平などを寺領に寄進した(久遠寺文書/甲州古文書2,国志)。天正10年3月の武田氏滅亡後,同年10月徳川家康が下条分10貫文を寄進し渋沢内屋敷1間の諸役を免除,同11年12月梅雪の子勝千代が「霊泉寺殿(梅雪)の判形の旨」を安堵している(久遠寺文書/甲州古文書2)。同16年11月には家康が5か条の定書を下した(同前)。この時家康は当寺に1,000石の朱印地を寄進しようとしたが,17世日新が辞退したという(本化別頭仏祖統記)。翌年家康は会式の関銭を免除した(久遠寺文書/甲州古文書2)。天正18年羽柴秀勝が山中殺生禁断,竹林東西門前の諸役免除,参詣者と寺中の国役などを免除し,梅雪より寄進された塩沢・八日市場の寺領を安堵(久遠寺文書/甲州古文書2),同19年受封した加藤光泰の家老加藤光政は同20年2月末寺屋敷免許状を出した(同前)。江戸期には歴代将軍より天正16年の掟書,同17年の家康の判物による会式関銭免除などを安堵されている(寛文朱印留・寺記)。近世初頭,受不施・不受不施の対立が起きた。寛永7年の身延山と池上本門寺の日樹らとの対論(身池対論)にあたり,日乾(21世)・日遠(22世)は幕府権力を後ろ盾にし不受不施派を抑圧(本化別頭仏祖統記・身延山久遠寺旧記)。さらに寛文5年の幕府の不受不施派弾圧により(身延山久遠寺旧記),日蓮教団を代表する地位を確立。日重・日乾・日遠3師は「宗門中興の三師」といわれる。日乾・日遠は身延山掟をつくり山規を整え,慶長9年20か条からなる町中掟を定めて,身延門前町の統制にも努めた(久遠寺文書/甲州古文書2)。その後,家康側室で和歌山藩祖の頼宣,水戸藩祖頼房生母のお万の方(養珠院)が日遠に帰依したため,紀州・水戸両家から保護を加えられた。また加賀前田家などの諸大名の帰依を得て,壮麗な伽藍を整え(国志),最盛時には山内に133の子院があった。31世日脱は36の祈祷坊を建立し,昼夜不断に読経させ,立正安国を祈らせた(身延町誌)。宝永3年歴代住持の紫衣参内を命じられ,正徳元年中御門天皇より勅願所の綸旨が下された(同前)。多くの外護を得て発展を遂げたが,江戸末期から明治初年にかけて災禍に遭い,伽藍の多くは灰燼に帰した。江戸末期の寺内・門前には,祖師堂・位牌所・会合所・資福堂・奥之院・西谷善学院檀林・七面明神を祀る七面山などがあり,子院は93に減少。山内住僧は167人,門前民戸312戸・1,217人であった(身延町誌・国志)。明治8年の火災は,久遠寺災禍のうち最大なもので,本堂・祖師堂など本院75棟を塵灰とし,子院・町家都合144棟の堂宇を焼失,その際日蓮の真跡を失った。しかし明治後期頃から諸堂宇の再建がなされ,今日の久遠寺の基礎を築いた。この頃山内8谷に散在していた子院は現今の30余坊に統廃合された(身延町誌)。身延山はスギやヒノキなどの成育に適し,良い建築資材を提供し,伽藍の維持・発展に多大の寄与をしてきた。その山林は明治維新後,約1,000町歩を境内地とした以外は,上地官林とされが,大正8年払下げを達成し800町歩を所有するに至った(同前)。昭和6年には日蓮聖人六百五十遠忌記念事業の仏殿納牌堂が建立された。約600の末寺,教会・布教所は昭和16年の宗門規則改正で本末関係を解かれたが,当寺は日蓮の廟所として「祖山」と呼ばれ,全門下の信仰の中心である(同前)。現在大本堂をはじめとする日蓮聖人七百遠忌記念事業が進められている。日蓮聖人草庵跡は県史跡,日蓮聖人お手植の杉・身延山祖廟域は町史跡。寺宝として国宝の絹本著色夏景山水図,国重文の宋版礼記正義と紙本墨書本朝文粋(建治2年書写),ほかに県および町文化財多数を所蔵する。身延山頂に奥之院思親閣,身延町飛地に末法の総鎮守七面大明神を祀る七面山敬慎院がある。




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「角川日本地名大辞典」
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