興因寺
【こういんじ】

甲府市下積翠寺町にある寺。曹洞宗。山号は増福山。本尊は釈迦如来。甲斐国内曹洞宗3派の代表的寺院である常法幢七か寺の1つ。「国志」「寺記」などによれば,平安後期の武将新羅三郎義光の子佐竹義業(法名興因寺傑山源英)を開基とし,室町後期の禅僧拈笑宗英を開山とする。平安後期から室町後期の寺歴は未詳。開山拈笑は伊豆国田方郡最勝院開山の吾宝宗璨(吾宝派の祖)から嗣法し,最勝院2世となり中山広厳院(東八代(ひがしやつしろ)郡一宮町)開山の雲岫宗竜(雲岫派の祖)や上宮地伝嗣院(中巨摩(なかこま)郡櫛形町)開山の州安宗彭(州安派の祖)らと吾宝五派の1つ拈笑派を形成する(日本洞上聯灯録/仏教全書110,国志ほか)。創建年代については文明年間とする(甲斐名勝志)が,実際には,拈笑は禰津定津院(長野県小県郡)を創建し,法嗣悦堂英穆が当寺を再興して師を開山に勧請したとも考えられる(寺記3巻解説)。このため天正6年には武田氏の保護を受ける当寺と定津院との間で,寺格の優劣を決する関本最乗寺(神奈川県南足柄市)輪番住持についての相論があり,武田勝頼が紛争の仲介を行っている(洞雲庵文書/神奈川県史資料編古代中世3下)。この時宮沢深向院(中巨摩郡甲西町,当寺末)3世の両月玄恵が,勝頼から同心100人を借りて最乗寺で定津院衆徒と争い,自らの死で当寺側の主張を通した(深向院文書/甲州古文書1,国志)。以後は当寺を上位とする本末関係に転じ,拈笑派発展の中心として甲斐国内および周辺地域へ末寺を増していく(寺記3巻解説・国志)。寺領は,天正10年の武田氏滅亡以前については未詳だが,翌11年4月20日付徳川家康判物で「万力之内千手院分」「中村明楽寺分」2か所で19貫500余文が与えられ,同17年には伊奈忠次寺領証文で石水寺(積翠寺)郷内72俵余に改められ,江戸期には積翠寺村内25石8斗余を朱印寺領として安堵(寺記,寛文朱印留,興因寺文書/甲州古文書1)。天正20年には加藤光泰より寺領安堵の確認状,慶長8年には平岩親吉より寺中乱妨停止の禁制が下されている(寺記,興因寺文書/甲州古文書1)。寛永20年,後陽成天皇の第8皇子,知恩院門跡良純法親王は天皇の怒りにふれて,天目山に流されたが,11月に「志麻の庄湯島の里」に移居。湯島の里は今の甲府市湯村で,寒さの厳しさから谷村の城主秋元泰朝が当寺に仮屋を建造,以後当寺に留まること13年,懐京の思いに耐えず,「鳴けばきくきけば都の恋しさにこの里過ぎよ山ほととぎす」と詠じてから,周辺ではホトトギスは鳴かなくなったという。寺に伝来する染筆は定家の和歌を書したものが多く,「おほかたのまつの千とせはふりぬとも人の真は君ぞかぞへむ」との1首がある。法親王は明暦元年八代郡上野村薬王寺(三珠(みたま)町)に移った後,万治2年に帰京の勅許を得た(国志・寺記ほか)。本末制度の整備された延享年間には,甲斐国内を中心に25の直末寺,260余の門末寺院をもつ中本寺となっており(延享度曹洞宗寺院本末牒),江戸後期には恵運院(末寺69,甲府市塚原町)・清光寺(末寺46,北巨摩郡長坂町)・深向院(末寺40,中巨摩郡甲西町)・正覚寺(末寺35,北巨摩郡須玉町)などの有力寺院32か寺を直末寺として末派寺院は甲斐・信濃・武蔵など各国で309か寺に及び(国志),甲斐国内では中山広厳院(雲岫派の中心寺院)につぐ門末寺院を有した。寛政6年には火災で古記録を失う(寺記)。甲州八十八カ所霊場の第60番札所で,現在境内の良純法親王謫居跡は県史跡。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7096884 |




