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向嶽寺
【こうがくじ】


塩山市上於曽にある臨済宗向嶽寺派の大本山で,もとは向嶽庵と称した。山号は寺の背後の山名で,古歌にも名高い塩山。本尊は釈迦如来。開山は恵光大円禅師抜隊得勝,大檀那は甲斐守護武田信成,創建は康暦2年(天授6年)である。抜隊は相模国中村の生まれ,出雲国雲樹寺開山三光国師孤峯覚明に参じて法灯派の禅奥を究め,永和4年3月武蔵横山から甲斐に入り竹森(塩山市上竹森)の地に草庵を結んだ。道俗の帰依する者800余人に及んだが,宝珠寺の庵主昌秀の努力で新たに領主武田信成から寺地の寄進を受け,康暦2年正月20日塩山に移り,一寺を建てて向嶽庵と命名した。かつて近江にあった時,夢に富士山に対して法を問うたことがあり,今その瑞夢が実現し日々富岳に対することができる仏恩を謝する意味で,命名したものであろう。至徳4年2月20日入寂,世寿61。抜隊は庶民を対象に平易な言葉で禅の真髄を説いた。また戒律に厳しく,特に罰酒神を勧請して飲酒戒を励行した。著書に「塩山仮名法語」「塩山和泥合水集」「塩山抜隊和尚語録」などがある。一説に向嶽庵は至徳2年(元中2年)に後亀山天皇から勅願寺に列せられたといい(桜雲記),当寺に向嶽元中禅寺の別名がある。確証はないが,抜隊の師孤峯が南朝方の深い帰依を受けていたことを考えるとむげに否定もできない。抜隊の門下には俊英が輩出し,寂後,向嶽庵に輪番住持した。2世通方明道は「甲州塩山向嶽庵開山抜隊和尚行実」を著して師の言行を後世に伝え,3世峻翁令山は住持すること前後5回,この間武蔵に広園・国済両寺を開いて教線を関東に拡張し,寂後応永26年法光円融禅師の諡号を受けた。こうして宗風大いに振るい,甲斐国内でも広済庵(東八代(ひがしやつしろ)郡八代町)・聖応庵(同郡境川村)・月光庵(富士吉田市)など有力な寺院が次々に建てられた。開山の門流は後世5塩7派(5塔7派)などと呼ばれ,ますます発展した。向嶽庵は武田信成以後も歴代守護の保護が厚く,寺領を寄進したり,法度・禁制を出して外部勢力の侵略を禁じたりした。武田信重が文安2年11月15日付で当寺に与えた「塩山向嶽庵領目録」によると,信成寄進の向嶽庵ならびに塔頭諸庵の敷地のほか,寺領63貫700文が安堵されており,その大部分は山梨郡にあったが,一部は巨摩(こま)・都留(つる)両郡に及び,最大の寺領は信成の子信春が寄進した都留郡田原郷深田村光沢分年貢銭27貫文(此内7貫文大慶庵分)の地であった。深田村は都留市下谷にあり,この寺領の維持には領主小山田氏の協力が必要であった。戦乱期に一時同氏に押領されたが,明応8年9月24日付で小山田信長が寺に返還している。なお大慶庵は3世峻翁開創の塔頭である。信重の寄進目録は,その後も寺領確認の基礎的証拠書類とし尊重されたが,戦国乱離の世,消長は免れず,永禄12年11月19日付で武田信玄が改めて確認した際の寺領は全部で48貫文,信重時代より15貫700文を減じている。次に法度・禁制については,開山の遺誡とともに,信成・信重2人の掟が特に尊重された。寺は経営面をつかさどる知事方と,修行面をつかさどる頭首方とが協力して禅林の運営に当たってきたが,信重の孫信昌の時代,文亀4年に知事頭首法度をめぐって両者の間に激しい紛争が起こり,時の住持75世天船は板ばさみとなって退庵,大衆もまたこれに同調して2月19日早朝開山の尊像を牧洞庵(山梨市上岩下)に移し,開山忌行事を勤めるという異常事態に発展した。そこで守護武田信昌・信縄父子の連判をもって調停が行われた結果,事件も落着し,2月30日一同は開山の尊像を奉じて復帰した。2月28日付塩山向嶽庵大衆中宛の信昌・信縄連署の法度は,開山の遺誡に背く輩は長く門中を追却すると述べ,さらに継統院(信成)・成就院(信重)の掟のごとく,俗徒は一事もその綺をなすべきでないと外部勢力の干渉をきびしく戒めている(向嶽寺文書/甲州古文書1)。この方針はその後も歴代守護によって厳守せられ,慶長7年3月の徳川家四奉行連署の禁制にも「一,寺家之儀俗徒之事」の1条が加わっている。歴代武田氏の厚い保護の中で,とりわけ信玄の外護が大きかった。天文16年6月5日,後奈良天皇から開山抜隊に恵光大円禅師の諡号が贈られたのも,かれの斡旋の労が大きかった。同月10日には当寺に紀州由良興国寺(開山は法灯国師心地覚心)に準ずる寺格を与え,出世の道場とするとの綸旨も出たが,前月5日には諡号の,25日には寺格の内示があり,後者の綸旨に「甲斐国塩山向岳寺」とあることから,以後庵号を改めて向嶽寺を称することになった。信玄は諡号勅許の内示を受けると,5月吉日付で寺に壁書を与え,「一,雖背開山御遺戒学文不捨昼夜」以下守るべき箇条を記して寺の大衆の奮起を促し,翌17年11月には,前年出世の道場となったにつき教戒を加え,新たに寺領寄進・諸役免除などを行っている。天正10年の武田氏滅亡後,寺は一時衰退したが,徳川家康は寺領を寄せ,寺門の復興を図った。近世の寺領は多少の変遷があったが,慶長8年3月1日付の四奉行黒印に37石3斗7升が朱印地とせられ(寺記),以後変わることがなかった。境内は方8町,山林周廻1里余で,門前民戸30などがあった(国志)。また武田氏時代は一山41院・末寺700を有したと伝えられるが,その後離末寺が増え,江戸中期の延享2年の状況を示す記録には,塔頭35・末寺49・孫末寺32・離末寺27・壊末寺6とあり,離末寺には武蔵の広園・国済両寺,甲斐の月江寺など有力寺院の名が見える。寺はまた古来しばしば大火に遭い,寺の歴史は火災と復興の繰り返しの観があった。開山の四百年遠忌を無事にすました2年後の天明6年正月16日の大火では仏殿以下を焼失,近くは大正15年4月18日鎮守秋葉神社祭典の夜,半焼の仏殿を除いて方丈・庫裏などを一瞬にして失い,第2次大戦をさし挟み,その復旧事業は営々と続けられている。明治5年9月に輪番住持制を改めて独住制となり,京都南禅寺所轄となったが,同23年派名の公称を許され,同41年管長を置き,国山樵隠が初代管長に就任,名実ともに別派独立の大本山となった。第2次大戦中,一時合同して臨済宗となったが,戦後再度独立して今日に及んでいる。現在山内塔頭8(東陽軒など),末寺52,静岡市の2寺を除いてすべて県内に所在する。数多い寺宝(国宝1,国重文3,県文化財10,市文化財8,その他)の中で,絹本著色達磨図は古くから伝わる南宋画様式の達磨像で,鎌倉建長寺開山蘭渓道隆の賛があり,国宝に指定され,絹本著色三光国師像は至徳3年8月晦日に師の偈を写した抜隊の賛,絹本著色大円禅師像は明徳4年6月1日の傑叟自玄(当寺6世)の賛がそれぞれあり,ともに国重文。また「向嶽寺文書」53点と「塩山向嶽禅菴小年代記」とは寺史だけでなく,戦国期研究の好史料であり,文書中の1点「向嶽寺朱引図」は縦180cm,横195cmに寺域を示した古絵図で,武田信虎・信玄・勝頼3代,さらに天正20年2月10日付で加藤光泰が証判を加えるという珍しいものである。そのほか,抜隊得勝墨書・抜隊遺誡版木・塩山和泥合水集版木・塩山仮名法語版木等々開山ゆかりのものが多い(以上,県文化財)。また向嶽寺中門は四脚門,切妻造り,銅板葺(もと檜皮葺)で室町期の遺構を伝え,国重文,その両翼の築地塀は礫に交ぜた土に強化のため塩を混入して築造したといい,塩築地の名がある。寺の歴史は「国志」「寺記」などに詳しいが,昭和42年庫裏再建の際出版された「向嶽寺史」が特に詳密である。




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「角川日本地名大辞典」
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