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塩後村
【しおごむら】


旧国名:甲斐

(中世)南北朝期~戦国期に見える村名。山梨郡のうち。塩子とも書く。至徳4年に作られた「塩山抜隊和尚語録」に「甲州塩後県寄住如真禅女」が母親雲外妙好大師の3周忌に法花経を書写して,塩山向嶽庵で供養したことが見える(大正新修大蔵経)。文安2年11月15日の寺領目録に「山梨郡塩後村之内鈴宮畠并角田〈年貢銭四貫文〉木戸殿御寄進」とあり,塩山向嶽庵の膝下にある寺領として甲斐守護武田信重が安堵している(向嶽寺文書/甲州古文書1)。同年12月7日には浄提なる僧が「甲斐国山梨郡五ケ村塩後之内号角田」(地積1反半,土貢1貫500文)の地を寄進の形で向嶽庵に売却した(向嶽寺文書/甲州古文書1)。文亀2年10月27日付左衛門佐信宗寄進状によれば「山梨郡八幡庄塩後村之角田年貢銭二貫文」が同寺に寄進されている。天文18年5月7日には,信良なる者が同寺に仏殿造営用途として「塩後之内弐貫文」を寄進している。永禄12年11月19日,武田信玄は,曩祖信重の安堵に基づき,「塩後之内鈴宮畠并旦過屋敷肆貫文」を再度寄進・安堵した(同前)。天正10年3月,武田氏滅亡後,一時甲斐国は織田信長の支配下に入ったが,同年6月,京都本能寺で信長が死没すると,徳川家康が入部,小田原北条氏の競合を退けて甲斐一国を掌握した。これにともなって,家康は武田氏旧臣の所領安堵を行い,当地では,天正10年8月23日,「塩後之内七貫文」が奥山織部に安堵され(奥山浩家文書/甲州古文書1),翌11年4月20日には,向嶽寺も「塩後之内五貫文」を安堵されている(向嶽寺文書/同前)。同11年9月28日には,広瀬美濃守(景房)に「塩子内拾貫文」が新恩として給与されるとともに,「塩子内七郎右衛門名田内徳屋敷共拾貫文」が安堵されている(譜牒余録/甲州古文書3)。天正17年,家康は甲斐を含む領国5か国の総検地を施行。甲斐国の代官は伊奈熊蔵(忠次)であったが,天正17年11月23日の寺領証文によれば,この時,向嶽寺は「小(於)曽郷・塩後両郷内」に103俵1斗6升の高を認められている(向嶽寺文書/甲州古文書1)。現在の塩山市上塩後・下塩後に当たる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7097133