須沢城
【すさわじょう】

中世の山城。中巨摩(なかこま)郡白根町大嵐に所在。御勅使(みだい)川左岸の扇状地の扇頂部付近,標高650mほどの山腹の平坦地に立地する。大嵐には現在,10~11世紀頃の作とされる千手観音像を安置する善応寺があるのみで,民家は1戸もない。城址とされる所はやや段差のある平坦地で,果樹畑などに利用されているが,郭などの区割りは明らかではない。南側の御勅使川の急崖に面する竹林の中に,土塁状の施設と石積みがわずかに残る。土塁状の上には数基の宝篋印塔が置かれている。「国志」によれば,「里人相伝ヘテ御勅使十郎,塩谷三郎ナル者此処ニ拠ルト云」と見える。塩谷三郎維時という人物は,建保元年の和田義盛の乱に加わって討死しているが,当城との関係は明確ではない。当城が歴史上に登場するのは南北朝期である。貞和5年,上杉憲顕とともに足利基氏の執事として鎌倉へ下向した高師冬は観応の擾乱で高師直(足利尊氏の執事)と足利直義(尊氏の弟)が対立すると,直義党の上杉憲顕と対立し,憲顕に鎌倉を追われ,甲州当城に没落。翌観応2年1月末,当城は諏訪下宮祝部らの勢に攻撃され,師冬は3日間の奮戦の末自殺したという(太平記)。当時の文書では,観応2年3月日の市河経助軍忠状に「次高播磨守師冬,逸見孫六入道等凶徒,甲斐国楯籠須沢城之由,依有其聞,御発向之間馳参,経助同十六日押寄当城,捨身命致散々,翌日十七日彼城攻落畢」とその落城の様を伝えている(市河文書/大日料6‐14)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7097386 |