棲雲寺
【せいうんじ】
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東山梨郡大和村木賊(とくさ)にある寺。臨済宗建長寺派。山号は天目山。本尊は釈迦如来。「寺記」に載せる天目山略縁起(元禄7年作)によると,南北朝期の貞和4年に業海本浄が創建。開山の業海は,文保年間中国元朝に渡り,天目山幻住庵の中峰明本(普応国師,幻住派の祖)のもとに参学,中峰の隠遁的宗風を慕って嗣法し帰国。甲斐山中の当地に一寺を開くが,山号の天目は師中峰の庵居した幻住庵の山号にちなむ(寺記,本朝高僧伝/仏教全書102)。創建時の逸話として,当寺の米穀食料が尽きた時,1頭の牛が30里離れた正法寺(東八代(ひがしやつしろ)郡石和(いさわ)町)まで出かけて食料を得て帰り,のちこの牛を天目牛と呼んだという(寺記,本朝高僧伝/仏教全書102)。この伝説は,業海と同門の正法寺開山明叟斉哲との交流から発生したものと考えられ両寺の協力関係を示すと推定される。業海と同じく中峰より嗣法した遠渓祖雄が丹波国佐治に高源寺を開き,多くの門弟を集め「西の天目」と称されたのに対し,当寺は「東の天目」と称され,室町幕府の保護を受ける五山派と対照的な林下幻住派の中心的寺院へ発展する。開基檀越とされる武田信満は上杉氏憲(禅秀)の女婿で,禅秀の乱に加わり敗走して当寺で自害し(国志),現在も境内に信満墓と伝える宝篋印塔が残る。天正10年の武田氏滅亡後,同11年4月20日付徳川家康朱印状で屋敷地475文・初鹿野新田(はじかのしんでん)分1貫550文のほか2か所で合計2貫925文の寺領が与えられ(寺記,棲雲寺文書/甲州古文書1),寛永19年8月17日付の家光朱印状で初鹿野村内4石2斗に改められる(寺記)。慶応4年に書き出された由緒には,山門・本堂・庫裏ほか伝灯庵・聴松庵など13の堂宇が見える(同前)。寺宝として木造普応国師坐像(文和2年在銘,国重文)ほか,同業海和尚坐像・同釈迦如来坐像や県名勝に指定された庭園内には,県内にまれな磨崖仏の地蔵菩薩像・文殊菩薩像があり,「延文己亥秊(4年)」鋳造銘のある銅鐘・開山宝篋印塔・宝篋印塔(以上,県文化財)を所蔵。なお江戸中期に成立した甲州八十八カ所霊場の第1番札所。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7097413 |