大泉寺
【だいせんじ】

甲府市古府中町にある曹洞宗の寺。山号は万年山。本尊は釈迦如来。武田信虎が甲府へ移館後,大永年間に天桂禅長を開山に請じて開基し,自己の牌所とした。寺伝では以前からあった密宗の大川寺を改宗改名したものという。武田・徳川氏両時代を通じ,中山広厳院(東八代(ひがしやつしろ)郡一宮町)と隔年に甲斐国曹洞宗800余寺を統轄する僧録司を勤めた。2世吸江英心は信虎の弟。天正2年3月5日,信虎は信濃国高遠で客死,孫の勝頼が遺骸を当寺に葬った。法号は大泉寺殿泰雲存康庵主。信玄も夭死した娘桃由童女のため永禄元年に浄古寺内3貫文を寄付し,元亀元年にはさきに死去した娘の北条氏政夫人黄梅院のために南古(なんご)のうち16貫200文を寄付して塔頭の造営など疎略なく勤めるよう促すなど保護を加えたが(大泉寺文書/甲州古文書1),特に永禄7年3月3日の火災で炎上した堂塔の再建には5世甲天総寅を督励して完成させた。勝頼も曹洞宗法度の制定などに力を貸している。武田氏滅亡後も徳川氏をはじめ歴代領主の外護が厚く,浅野氏は当寺を菩提所とし,朝鮮出兵の戦死者の供養なども行った。天正11年4月18日,徳川家康は寺領47貫360文・山林境内門前屋敷ならびに諸末寺などを安堵したが,寺領はその後変遷があり,江戸期には古府中で朱印領31石6斗余となった。本来,寺領68石余,門前屋敷分59石3斗余があったが,大久保石見守の検地で95石9斗余削除されたというのが寺側の主張である(年未詳大泉寺領証文案)。文化年間,末寺26,孫末ともに90余,門前屋敷(大泉寺小路)22戸中現存7戸,寺内僧50人・下男10人など(国志)。門前屋敷は幕末には2戸に減った(寺記)。文化年間に火災に遭っているが,昭和20年7月6日深夜の大空襲で,本堂・庫裏・仏殿・方丈・書院以下広壮な伽藍群のほとんどを焼失,わずかに宝蔵・武田三代霊廟・総門などが難を免れた(現在本堂・庫裏など復興)。寺宝の絹本著色武田信虎像は信虎の三男信廉(逍遥軒信綱)が父の死の直後に描いたもので,長禅寺2世春国光新の天正2年端午日の賛があり,信虎の魁偉な風貌を今に伝えている。また絹本墨画松梅図は中国元代の画人呉太素の筆,以上2件は国重文。また所蔵の古文書は,武田氏はじめ歴代支配者との関係や甲州曹洞宗史を知る上に欠かせない重要史料で,県文化財。その1点「武田晴信十七首詩篇」は肥後熊本藩主細川家所蔵の原本の写しである。そのほか紺紙金泥法華経8巻,信虎と信玄が使用したという2個の金銅金具山伏笈,伝信玄愛用の茶臼などがある。また総門は柳沢氏の菩提寺永慶寺(甲府市岩窪町)が廃寺になったのち,移建されたものといい黄檗宗独自のものである。境内には武田信虎の墓(県史跡),浅野氏の建てた朝鮮出兵戦死者供養塔などもある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7097477 |