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広小路
【ひろこうじ】


旧国名:甲斐

(近世)江戸期~明治9年の町名。江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町。俗に広町とも称した。武田氏の時代に造営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた。町人地。甲府城の北部,外郭内に位置する。東は細工町2丁目,西は白木町に接する東西通りで,東の境界は東西通りの細工町2丁目と南北通りの竪町・畳町が交差する四つ角となる。南側99間・北側90間(国志)。道幅は竪町・畳町の南北通りよりもやや広く,町名の由来も広い道幅にちなむという。南側の西角は新海造り酒屋の店舗が北向きに開き,その裏手には酒蔵が続く。また東の細工町2丁目との角は,竪町の商店通りに続く小商いの店が2,3あったという。ほかは板葺や草葺の住宅地であった。戸口は,寛文10年101人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年30戸(上下府中間別/同前),享保5年99人(甲府上下町中人数改帳/甲府文庫史料2),宝暦12年95人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年36戸・115人,うち男60・女55(国志),天保7年35戸・73人(甲府上下町屋敷人別改覚/甲州文庫史料2)。大助32町の1町として年間人足19人を出役した。北側には境内804坪の黒印地をもつ浄土宗京都知恩院末寺の円覚山浄興寺があり,創立年代はつまびらかでないが,慶長元年の浅野長政の印書を所蔵し,山門のそばに高さ2m余の六角の石塔がたつ。六角の各面に経文が刻まれ,六地蔵と伝えているが,久保町の六角山欲生寺の廃寺にともない,合併して六角石地蔵を移したものであろう。石地蔵とは称されているが別に地蔵の体躯をしておらず,一説に弘法大師開眼と伝える。明治3年の戸数16,うち家持14・借家2(甲府町方家数人数取調書)。同9年白木町の一部となる。なお,合併後町民はもとの白木町を西白木,広小路を東白木と別称したともいわれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7098194