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柳町
【やなぎまち】


旧国名:甲斐

(近世~近代)江戸期~昭和39年の町名。江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町。甲府築城にともなう城下町造営により成立。町人地。城下の東南に位置する。三ノ濠で囲まれた郭内にあり,甲州街道沿いの南北の町並み。町の規模は,東側249間・西側279間(国志)。1~4丁目からなり,明治初年の柳町全図によると1丁目は道幅5間,2~4丁目は道幅6間と見える。西は二ノ濠で内城に接し,東は山田町・八日町・三日町・上連雀町・鍛冶町と交差し,北は竪近習町,南は緑町に続く。町名の由来は古府中にあった柳小路(元柳町)の名を移したことによるという(甲府略志)。寛永13年甲州街道の宿駅が設置され,問屋場は3丁目に置かれた。元禄4年の町年寄御用留によれば,伝馬役の代償として町中付出し荷物の独占権や在々馬からの「小出シ札銭」の徴収権が認められていた(甲州文庫史料1)。戸口は,寛文10年1,036人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年79戸,うち1丁目18・2丁目11・3丁目22・4丁目23・横町5(上下府中間別/同前),享保5年972人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年875人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年92戸・674人,うち男366・女308(国志),天保7年101戸・780人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)。江戸期を通じて城下で最大の人口を擁し,また八日町・三日町・山田町と並び城下商業街の中心であった。初期の豪商に検断・町年寄を勤めた松木氏・五味氏が知られ,その後松木氏を継いで享保9年以降八日町の坂田氏とともに町年寄を世襲した山本氏や,問屋の加藤氏が著名であった。貞享3年の町中諸問屋改帳(甲州文庫史料3)によると城下の穀問屋15人中当町に9人がおり,ほかに,紙問屋2・塩問屋2があり,また元禄年間には信州酒問屋3・両替屋4があるなど大商人が多かった。寛延3年の穀仲買書上(同前)によれば,古くから当町1~3丁目は三日町1丁目とともに「穀町四丁」として穀商売に関する特権を認められ,69人からなる城下穀仲買仲間はすべてこの4丁の組合に属して営業することが定められていた。なお当時当町の仲買人は1丁目組合に9人,2丁目組合に3人,3丁目組合に11人おり,穀取引きが盛んであった。宝暦5年には城下の造酒屋22人(酒造石高1,774石余)のうち当町には150石の造酒屋以下8人がいた。江戸後期には油屋6・茶仲買4・煙草仲買5・湯屋2・質屋2・太物商16・古着商19・菅笠商2・請酒商5・菓子商1などが見え,また町内の柏屋藤兵衛は享保年間から天保6年まで江戸三度飛脚屋株をもって甲府~江戸間を営業した。江戸後期に旅籠屋仲間34軒が営業していたが,安永2年1軒につき2人までの飯盛女を置くことが公認された。その後風紀の乱れを理由に飯盛女引払いの命令が出されたが,宿駅衰微と営業困窮を訴える旅籠屋の願い出によって許され,江戸期を通して当町は城下でも独特の風俗街として推移する。明治3年飯盛女を抱えていた旅籠屋は新たに売妓地として設定された上府中増山町に移転を命ぜられた(新郭名は新柳町)。この間,享和3年4月町内2丁目から発した火は下府中の19町に及ぶ大火となり,当町では94戸が全焼。また嘉永7年3月町内3丁目からの出火も他町を類焼させたが,町内では62戸を焼いている(町年寄御用日記)。さらに同年11月の大地震では市中で最も被害が大きく潰家81戸を生じている(甲州文庫史料1)。神社は3丁目に大神宮があった。上層商人として前記商人のほか戦国期武田氏以来の由緒をもって甲州金鋳造を業とした松木氏や塩問屋の孫左衛門(高野)家が知られ,また幕末横浜開港以後台頭する甲府の新興生糸商人を代表する風間伊七がいた。明治3年の戸数205,うち,家持83・借家122(甲府町方家数人数取調書)。明治5年飛脚問屋加藤源六郎所有の建物を借用して甲府郵便役所を開設,同8年甲府郵便局と改称して常盤町へ移転。明治7年梁木学校新築,学制頒布以来最初の学校建築で本県における洋風建築の先駆であった。また同年野口正章がビール醸造(三鱗ビール)を始める。同17年甲府総町戸長役場,同20年から甲府錦町外三十六ケ町戸長役場の管轄区域に入る。同22年甲府市に所属。市役所は町内にあった旧甲府錦町外三十六ケ町戸長役場(旧梁木学校校舎)に置く。同年の戸数172・人口778,大正9年の世帯数229・人口1,580。市の中心街として銀行も当町に集中。明治31年松浦銀行設立,同33年大森銀行が三日町から移転,同34年伊藤銀行設立,同41年有信銀行が三日町から新築移転,大正12年安田銀行甲府支店が設立された。同15年甲府商業会議所新築。この間明治36年の国鉄中央線の開通と甲府駅開設にともなう繁華街の西進により影響をうけたが,その後も春日町・桜町に伍してその地位を維持,昭和前期には諸会社の設立が多かった。昭和20年の空襲では全世帯数279のうち全焼227・半焼50(甲府空襲の記録)。同26年の世帯数210・人口945。第2次大戦後の復興期から市の中心街の西進によりその座を失う。同39年中央1~5丁目の一部となる。




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「角川日本地名大辞典」
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