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横沢町
【よこざわまち】


旧国名:甲斐

(近世~近代)江戸期~昭和39年の町名。上横沢町と下横沢町が合併して成立。両町はともに江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町で,天保7年の甲府上下町屋敷数人別改覚(甲州文庫史料2)では両町合わせて横沢町と見えることから,この頃には合併していたと思われる。甲府城の西,郭内に位置する。北は元三日町のもとの玉泉院敷地,南は相川町に接する南北通りで,東は甲府城の二ノ濠,西は相川堤に接する。町名の由来は相川の氾濫が繰り返されて自然の沢になったことにちなむという。戸口は,天保7年51戸・113人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)。江戸末期に評判になったものに一名「花背負いヒナ」とも呼ばれる横沢ヒナがある。背に桃の花枝を添えた小さいヒナで,農民が農間期につくり出し,春の節句前によく売れた。またヒナ作りから発展した甲州ダルマがあり,顔の彫りが深いのが特徴で,大小10数種の木型にダルマ紙(市川大門村で作った和紙)を糊ではってくるみ,乾燥してから木型を抜き,色を塗って仕上げるが,絵具をニカワでときまぜるのが向寒の時期が最も良く,そのため農事が終わる12~2月が製作の最盛期になる。ダルマ作りに名人が11人いたが,同じ町内から出て柳町に店を開いた玩具屋松米(まつよね)(松本米兵衛)が自家の工場で作らせるために雇い入れたため,横沢のダルマ作りは次第に減った。明治初年臨済宗南保山久昌院が廃寺となり,この廃寺跡や相川の洪水で川原になっている所へ,もと甲府勤番武士らが開墾を始め,帰農する者が出た。また明治6年6月県は内務省に申請して甲府城の要衝になっていた外濠の埋立て許可を得,これにより横沢町の二ノ濠は徐々に埋められ,幅員15間の濠は2間幅の側溝として細く残った。ドブというには底が深いので,小さい川という形で,住民はドブ川と呼んだ。町は広くなり,それを畑にした家もあった。横沢町と相川町の境界は二ノ濠の東へ曲がった角の旭栖院が境であったが,旭栖院裏の埋立地に住宅が建つなど横沢町は東側が広がった。明治3年の戸数39,うち家持32・借家7(甲府町方家数人数取調書)。同17年上府中組戸長役場の管轄区に入る。同22年甲府市に所属。同年から同36年まで上府中を冠称。同年国鉄中央線が開通,町内を横断した。戸数・人口は,明治22年31・150,同41年82・418,大正7年85・435,以後の世帯数・人口は,昭和2年146・693,同12年169・778。昭和20年の空襲では282世帯中79世帯が全焼,218人が焼け出され,死者2名を出した。慶長院の本堂も焼失した。第2次大戦後は,焼け残った家々へ罹災者が間借りしたため,人口が増えた。世帯数・人口は,昭和25年193・881,同30年222・945,同35年247・998。戦後,社会保険山梨病院が設置された。横沢ヒナは大正期に途絶えたが,甲州ダルマ作りは中村勇造夫妻によって続けられている。同37年一部が朝日1~5丁目となり,残余は同39年宝1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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