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伊那谷
【いなだに】


伊那・駒ケ根・飯田の3市と上伊那郡・下伊那郡の全町村の総称として慣例的に使われることが多い。しかし自然的および人文的事象の連続性,機能的統一性を重視した場合には,むしろ細長い盆地が天竜川を中心とする水系によって貫かれ一体になっている範囲を伊那谷と称してよいであろう。この場合の範囲は,西を木曽山脈,東を赤石山脈の前山である伊那山脈に限られ,南北約60km・東西8~10kmの細長い沈降性の地溝であり,北は標高700mの辰野付近から南は標高360mの飯田市天竜峡までの範囲にわたる。この細長い盆地は伊那市と上伊那郡宮田村の境界付近で幅が2km以下と最も狭くなるが,盆地は途切れることなく南へ続く。このようにやや狭く限定した場合の伊那谷には,伊那・駒ケ根・飯田の3市のほか,上伊那郡辰野町・箕輪町・南箕輪村・宮田村・飯島町・中川村,下伊那郡松川町・高森町・豊丘村・喬木(たかぎ)村が含まれる。第三紀に富草層を堆積した古瀬戸内海に続き第四紀初めにも伊那谷をその東端に含む形で第二瀬戸内海が東に延びた。やがて四万十帯や秩父古生層からなる赤石山脈が上昇を始め,ここから供給された砂礫が100~150mの厚さの伊那層として堆積した。この途上で塩嶺方面の火山活動によって安山岩や凝灰角礫岩のいわゆるミソベタ層が作られ,これを境に伊那層は上部と下部とに分けられている。盆地側が落ち込むと同時に木曽山脈や伊那山脈も上昇を始め,伊那層の上部には内帯の砂礫も含まれるようになった。東西の山地の上昇は激しく,盆地の河川はしばしば湖沼を形成したらしい。下伊那の天竜川左岸(竜東地区)は準平原の遺物をのせる伊那山脈の前面に開析の進んだ大きな古扇状地が広がり,丘陵性の風貌を呈し,不透水層を所々に挟む風化した花崗岩の堆積物が卓越して用水の便があり,さらには中世起源の開拓集落であることから,散居集落が著しく多い。伊那層の堆積後,東西の山地は間歇的にさらに隆起を続け,流路を南方にとるようになった天竜川やその支流の活発化した浸食作用により伊那層には日本屈指の大規模な河岸段丘が発達した。伊那市付近では高位段丘でも開析があまり進んでおらず,その平坦な広がりは三峰川両岸の部分も含め,雄大である。伊那市を南北に通過する三州街道(伊那道,現国道153号),東へ延びる杖突街道,さらにJR飯田線は,伊那市付近では天竜川や三峰川の低平な氾濫原や低位段丘を主に利用している。また伊那谷を代表する米どころでもある。およそ50万年前から盆地に接してそびえる木曽山脈の上昇が速度を増し,宮田村以南では南北方向の逆断層と扇状地が重なり合って発達するようになった。伊那層の上部には不整合に花崗岩を主材とする礫の大きさが不揃いの天竜礫層がのり,木曽山脈の急速な上昇を裏付ける。これらは主に天竜川の中位および下位の段丘を構成する。宮田村から松川町までは,木曽山脈から流れ出す土砂のため天竜川は東へ強く圧迫され,また太田切川・中田切川・与田切川に典型が見られる深い田切地形が発達して鉄道や国道の通過の障害となってきた。高森町市田付近から飯田市の市街地までは,かつての扇状地が断層によって切られ,あたかも河岸段丘だけでできているかのような地形を4段にわたって展開する。南北もしくは北東-南西方向に続く断層は,扇状地の扇央部でありながら各所に湧水を生じ,多くの遺跡とともにこれによってできた集落をつないで交通路が延びた。伊那谷の気温分布を巨視的にみると,県を南北に貫く年平均気温10℃以上の帯の中に収まる。その中で12℃の等温線は北に凸に飯田市あたりまで入り込んでいる。降水量分布は大きくみれば南ほど多く等値線は南に凸の形になる。辰野・高遠両町は1,600mm以下の地帯に入り,天竜川左岸と三峰川両岸はともに上伊那の少雨域となっている。1,600~1,800mmの地帯は箕輪町から伊那市東部六道原をかすめて南下,小渋ダム付近より南西に折れて市田を経て飯田市に達し,泰阜(やすおか)村まで南下して向きを北東に転じる。この地帯の中の,喬木村・豊丘村を中心とした天竜川左岸が下伊那の少雨域を形成する。伊那谷の南部および南西部は木曽山脈の高度が低下してくる南端にあたるので冬季には北西の季節風が入りやすく,夏季の降水も冬季の降雪もともに多い。このように伊那谷の気候は緯度差よりも山地と平坦地の配列や標高差のような地形による効果が大きい。南に開いた伊那谷は,発達した低気圧や台風が北進あるいは東進する時豪雨による被害を受けやすい。昭和36年6月の災害(三六災害)はその典型である。また全年の雨量も長野盆地や松本盆地の6割から8割がた多い。遅霜の被害を逃れるため中央道の下に冷気を通過させる工夫や,四季を通じて強い南風に対処するため軒を深くしたり,家の向きや屋敷林の配置に工夫が見られる。内陸でありながらわりあい雨が多く,また緯度が低いため,高森町まで来ると,孟宗竹・茶・サザンカ・ビワなどを目にすることができる。年日照時間は飯田市で2,000時間を超す。夜間の放射冷却が大きく気温の逆転が起きやすく川霧の立つ日が多い。温暖で気温の日較差が大きいことは松川町や高森町の盛んな果樹栽培の背景をなす。古代東山道は神坂峠を経て美濃より信濃へ入ったと考えられているが,古代から中世の伊那谷は官道の通過ルートとして極めて重要で,古墳が多く,特に前方後円墳が下伊那に多い。園原を経て伊那谷に入った東山道は,阿智・育良・賢錐・宮田と天竜川右岸の起伏の小さな山麓線もしくは高位段丘をたどったらしい。昭和57年の中央自動車道全線開通により,天竜舟下りの客の増加や果樹園の観光農園化に拍車がかかり,大都市の市場と直結することで野菜や花卉の生産も大いに刺激され,上伊那方面への工場の進出も促した。昭和60年の県の工場適地830haのうち伊那谷は約400haあり,県内で最初に中央自動車道にアクセスしたことを反映している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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