100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

上田藩
【うえだはん】


旧国名:信濃

(近世)江戸期の藩名。はじめ外様,のち譜代の中藩。甲斐武田氏滅亡を機に自立を図る真田昌幸が天正11年に築いた信濃国小県(ちいさがた)郡の上田城を本拠とする。支配地は次第に拡張され,小県郡一円から北上州の一部に及んだ。慶長5年関ケ原の戦に際して石田三成方に与して徳川秀忠軍を上田城に阻止した昌幸は,次男信繁(幸村)とともに高野山に追われたが,長男信幸(のち信之)が父の旧領小県3万8,000石の知行を許され,真田家は父祖の地を保持することができた。上田領は全領規模の検地が行われず貫高制が踏襲され,1貫文を2石4斗7升とする換算により石高を出していた。元和8年8月信之は川中島10万石に転封(松代藩),代わって小諸城主仙石忠政が小県5万石に川中島1万石を加え計6万石で入封した。忠政は関ケ原の戦後破却された上田城の修築に取り組み,また領内統治態勢の確立を図って組制度を取り入れた。組は最寄りの村々10~20か村ほどをまとめた行政区で,小泉・浦里・塩田・田中・国分寺・洗馬(せば)・塩尻の7組があり,このほか武石村・川中島8か村(のち5か村)・上田城下町も同格に扱われた。組には組内の有力百姓2名が代表として選ばれ,割番と呼ばれた。藩は組の支配を担当する代官と手代を任命した。この組制度は廃藩まで続いた。仙石氏は重臣および200石取以上の家臣に地方知行制をとっていたが,給米や薪などの徴収に限定されたものであった。寛永5年忠政が没し,嫡男政俊が襲封した。同12年重臣加藤主馬助父子を誅罰する事件が起きている。寛文9年政俊は致仕し,孫の政明が家督を相続したが,このとき政俊の弟政勝に領内2,000石を分知し,小県郡内に旗本仙石氏(矢沢)領が成立,藩領は5万8,000石となった。この年政明は家中法度と百姓法度を定めている。仙石氏時代上田領内では用水堰や溜池の新築・改修が進められ農業振興が図られ,領内特産上田紬(上田縞)が全国的に知られるようになった。宝永3年正月政明は但馬国出石領主松平(藤井)忠周との所領交替を命じられ転封した。忠周は将軍徳川綱吉の側用人から京都所司代を経て享保9年には老中になっている。松平氏は上田入封に際して領内全村から村明細帳を提出させ,現在では貴重な資料となっている(大日本近世史料)。松平氏は入封と同時に領内施政の基本を示す21か条を示した。享保2年忠周は京都所司代となり,所領のうち川中島1万石分を近江国浅井・伊香両郡のうちで与えられた。翌3年割番とは別に領内組ごとに大庄屋役を任命したが,元文5年に廃止された。享保13年忠周は江戸で没し,嫡男忠愛が家督を相続した。近江の所領は再び川中島に戻され,享保15年そのうちの5,000石を弟忠容に分知し旗本松平氏(塩崎)領が成立した。上田領は5万3,000石となり,以後は廃藩まで変化はなかった。寛保2年の千曲川大洪水(戌の満水)では領内で流失家屋671戸・砂入家屋574戸,流死人158人の大損害を被った(上田小県誌)。寛延2年忠愛は隠居し,嫡男忠順が襲封,家中法度を布告して倹約と役所の経費節減を命じた。また宝暦3年には家中に半知を申し付け,同9年には家中に重ねて倹約触を出した。しかし宝暦11年12月に浦野組から一揆が起こり,全領に及んだ。村方から出された19か条の願意はほぼ認められたが,夫神村の浅之丞と半平は首謀とされ死罪となった。当時の記録に「上田縞崩格子」や郡奉行の記した「小録」「私議政事録」などがある。天明3年忠順が没し嫡男忠済が襲封した。この年9月飢饉に耐えかねて一揆を起こした北上州の農民は,10月2日峠を越えて信州に入ったが,上田藩の攻撃をうけて壊滅した(梵天一揆)。寛政元年閏6月藩主屋形大書院あたりから出火してほとんど全焼したが,翌年7月には再建,現在もこのときの表門が残されていて上田高校の正門となっている。文化9年忠済は隠居し,塩崎分知から入った忠学が家督を継いだ。同10年藩校明倫堂が設立され,幕末期の藩政を担う人々が育てられた。文政11年1月次期藩主候補で忠済の次男忠和が死去し,続いて忠済も没すると,藩重職は後継者に姫路藩主酒井忠実の次男玉助を迎えることにした。天保元年忠学は隠居となり,玉助の忠優が家督を相続した。同4年藩は産物改所を新設して,売買するすべての絹・紬・生糸などの品質検査を実施し,改料を徴収した。安政3年には産物会所も開設し,領内産物の流通に介入して利潤の中間搾取を試みた。忠優は奏者番・寺社奉行加役から弘化2年大坂城代を経て,嘉永元年老中となった。幕府で外交および将軍継嗣が問題になると,忠優は南紀(徳川慶福,のちの家茂)派として水戸の徳川斉昭と鋭く対立した。安政2年8月の老中罷免は,斉昭が老中首座阿部正弘に進言したためという。安政4年6月正弘が病没すると,同9月忠優は老中に復職し,名を忠固と改め,井伊直弼を大老に推して水戸派の排除と薩長両藩の幕政介入阻止を図った。しかし直弼とも対立し,安政5年6月再び老中を罷免され,翌年9月には死亡した。暗殺説もあるが確証はない。忠優が中央政界で活躍中,領内農村は散田増大に悩み,嘉永年間からは家老藤井右膳を中心に藩政改革が進められたが,結果的には家老岡部九郎兵衛らとの対立抗争を引き起こして失敗した。忠優の跡を忠礼が継ぎ,藩政の課題赤字財政が回避できず問題となるが,幕末動乱期を迎えて軍事増強が優先され,慶応元年の第2次長州戦争には出兵して大坂駐留は1年3か月に及んだ。この時期の藩士としては兵学者で上下2局からなる議会政治を主張した赤松小三郎が注目されるが,慶応3年9月薩摩藩士によって京都五条で暗殺された。同4年1月戊辰戦争が始まると幕府方を表明した忠礼も,2月には一変して恭順の姿勢を示した。閏4月には官軍として北越戦争に出兵した。明治2年3月版籍奉還を願い出て,6月には知藩事となり,8月帰藩すると,待ちかまえていたのは領内騒動であった。米価引下げや割番廃止などをかかげた一揆勢は,町家を打ち壊し放火したほか,村方の割番・庄屋層をも攻撃した。首謀者は入奈良本村の増田九郎右衛門とされ処刑された。このときの記録に「上田島縺格子」などがある。明治3年には新政府の指示に基づき藩制改革が行われたが大勢に変化はなく,翌4年7月廃藩置県により上田県となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7099377