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四宮荘
【しのみやのしょう】


旧国名:信濃

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。更級(さらしな)郡のうち。郷名でも見える。塩崎の西方山麓一帯の沖積地。地名は信濃国四の宮(武水別神社)の鎮座に由来するという説(地字略考)がある。文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈同前(御室御領)〉四宮庄南北」とあり,南北2つの荘に分かれ,ともに御室仁和寺領であった(吾妻鏡同年3月12日条/信史3)。また「吾妻鏡」文治4年2月2日条の源頼朝が所縁による私訴を斥ける事書の中に「信濃国四宮庄地頭不進弁年貢井領家得分由事」があり,この頃は八条院領に包含されていたが,地頭が年貢を対捍していたことを示している(信史3)。貞和2年6月18日夢窓証判のある諏訪円忠四宮荘田在家注進状案によると,四宮荘北条は定田41町9段・在家35宇で,長谷寺免田2町・鎮守神田1町2段・三林薬師田2段や相伝の名田を引いた28町5段に対する年貢として,100貫文を領家仁和寺へ,300貫文を天竜寺へ割当てている(天竜寺重書目録/信史5)。これによると領主は依然として仁和寺であり,地頭職は北条氏一族の金沢顕時(円明)であったが,幕府滅亡後没官領として諏訪円忠に与えられ,この時天竜寺に寄進されたことがわかる。建武2年11月9日足利尊氏は「四宮庄内北条地頭職」を諏訪頼貞に渡付させている(中村岳陵氏所蔵文書/同前5)。荘域は,北条は長谷寺参道以北に比定され,松節に中条の地名が残り,南条は稲荷山・桑原方面と推定されている。鎌倉期には,勅旨田も存在した。永仁6年8月2日の仁和寺宮令旨によれば,「北院領四宮勅旨」を高山寺領として安堵しており,12年後の延慶3年6月16日伏見上皇は院宣をもってこれを安堵している(高山寺文書/同前4)。しかし四宮勅旨の領域や所在については明らかではない。建武2年中先代の乱が起こり,四宮左衛門太郎ら諏訪神党は舟山の守護所に押し寄せて小笠原貞宗らと合戦した。同年7月日の小笠原貞宗証判のある市河助房等着到状には「同日(7月14日)八幡河原合戦并篠井・四宮河原合戦,毎度馳渡千熊河,懸先令対治朝敵等畢」と見える(市河文書/同前5)。同年8月日の市河親宗軍忠状にも「篠井河原・小四宮合戦」と見える(同前)。この合戦によって四宮氏は滅亡し,小笠原貞宗が併有した(天竜寺重書目録/信史5)。当地は応永7年の大塔合戦でも戦場になる。「大塔物語」には,千田讃岐守が「上島之瀬颯打渡,馳著四宮」とあり(信叢2),同年11月15日の市河興仙軍忠状には「於更科郡四宮御合戦之時」と見える(市河文書/信史7)。嘉暦4年の諏訪大宮造営目録には「玉垣五間 四宮」とあり(信史5),戦国初期成立の諏訪御符礼之古書によれば花会・御堂の頭役を勤仕している。代官は,享徳3年「千田蔵人宗康」,長禄3年「赤沢対馬代官千田康信」,文明12年「桑原六郎次源貞光代初」とあり,地頭は赤沢氏で,代官は千田氏・桑原氏が勤めていた(信叢2)。赤沢氏は塩崎城を要害城としていたと伝える。天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳には「瑞籬五間……四宮之郷……代官不知」と見え,赤沢氏は退転していた(同前)。この郷域は塩崎・稲荷山を除いた長谷寺東方の現四ノ宮周辺と考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7101121