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橋詰村
【はしづめむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治9年の村名。水内(みのち)郡のうち。橋爪村とも書いた(川中島知行目録)。陣場平山の南山腹に位置する。堀端遺跡からは,縄文時代から平安期にかけての石器・土器・土師器・須恵器などが出土し,また中世春日氏の居城と伝える戸屋城跡や萩野城跡がある。地名の由来は,戸屋城の橋のたもと・城下に位置することによる(地字略考)。松代藩領。村高は,「慶長打立帳」「正保書上」「元禄郷帳」いずれも515石余,「天保郷帳」572石余,「旧高旧領」580石余。天保11年の免相・本新田高付帳(県史近世史料7‐1)に,本田515石余・新田57石,免4ツ5分。元禄年間の信濃国絵図仕立帳(信叢23)によれば,平出・清水・市場・地蔵堂・田中・苦桃・大窪・小瀬場・新地・木曽国の10か所に枝村がある。散村で小集落が多いため,元禄年間から上組と下組に分けられた。文化6年の封内人員に人数787。安政3年の領内村々家数留(県史近世史料7‐1)に,家数は上組77・下組80。慶応4年の家数等改帳に,家数は上組69・下組77,人数は上組384・下組414。古くから山抜けが多く,安永3年には検使の派遣を願い出ている(七二会村史)。弘化4年の地震では焼失1軒・全壊60軒・半壊6軒・死亡40人の被害を受けた(むしくら日記/信叢9)。元禄10年の堂宮改帳によると,虚空蔵堂・大日堂など10堂と富士浅間・八幡宮など25社があり,同年の寺社領書上に,円命寺1石・飯縄社1石・曹洞宗正泉寺1石・曹洞宗久松(昌)寺8斗2升が除地となっていた。地蔵峠を越えて裏山中への戸隠道が通り,峠には信濃三十三番札所の観音石仏が残されている。明治4年松代県を経て長野県に所属。同7年の調では田11町余・畑45町余(県町村誌)。同9年七二会村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7102697