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揖斐川
【いびがわ】


西濃地方を北から南へ流れる,濃尾地域三大川(木曽・長良・揖斐)の1つ。岐阜・福井両県境にある越美(えつみ)山地の揖斐郡藤橋村高倉(こくら)峠に源を発し,南東流し同村内で美濃俣丸(みのまたまる)・三周ケ岳付近を源とする西谷(にしたに)を合わせ,同郡藤橋村川尻(かわじり)で坂内川(広瀬川)と,同郡久瀬(くぜ)村津汲(つくみ)で日坂川・小津川(高地(こうち)川)と,同郡揖斐川町出屋敷(でやしき)で粕(かす)川と,安八(あんぱち)郡神戸(ごうど)町落合で根尾(ねお)川(藪川)と合流する。このあたりから流路を南へ変え,養老郡養老町大巻で牧田川と,海津郡南濃(なんのう)町山崎で津屋川と,三重県桑名(くわな)郡多度(たど)町上之郷で多度川と,三重県桑名市で長良(ながら)川と合流し,桑名市と長島町の地先で伊勢湾に注ぐ。総延長121km,うち県内延長約92km,流域面積1,840km(^2)。揖斐川流域の山地面積は流域総面積(山地率)の78%。藤橋村・根尾村境の角閃花崗閃緑岩から成る能郷白山(のうごはくさん)地域と,坂内村・久瀬村・春日(かすが)村の3か村にまたがる貝月(かいつき)山花崗岩地域を除くと,古生層二畳紀の砂岩・粘板岩・チャート・石灰岩・輝緑凝灰岩から成る標高1,000m内外の壮年山地で,揖斐川の上流はこの山地の中に,峡谷やV字谷を刻んで流れる。山地は多くの断層で切られるブロック山地で,流路がこの断層に支配される。藤橋村の源流部で赤谷(あかんたに)と道谷(みちんたに)の合流点付近から,藤橋村の中心地までの北西~南東の流路は,さらに南東へ馬坂峠を越えて根尾村矢谷川へ延びる断層線に沿っているし,その下流の開田(かいでん)から藤橋村杉原(すいばら)地内までの流路,さらにその下流の鶴見・東杉原までなど,それぞれ方向を変えて断層線に沿っているし,支流粕川や根尾川の本支流も断層谷が多い。また山地内を流れる本支流の河岸には,ブロック山地の隆起運動による浸食の結果,小規模ながら2段ないし3段の河岸段丘も見られるし,最上流部付近には狭い堆積谷底平地も見られ,数km内外の間隔でこれらの段丘や沖積地に耕地や集落が立地する。揖斐川町以北の本流は明治初年まで久瀬川(杭瀬川ともいった)と呼ばれ,揖斐川(伊尾川と書いた場合が多い)という河名を,公文書での使用を拒否した文書も残っている(久瀬村誌)。また住民相互には大川と俗称していた。水力発電が始まる前の大正期までは,段木(つだ)と称した薪用材の流送・筏流しなどが中世から行われ,出口の森前・室(むろ)などには近世段木役所があってここで陸上げ検査もされた。また川船も渓口の森前に船持ちの船頭がいて,横山まで溯上し,薪炭・紙・茶・石灰などの特産物を時には桑名さらに名古屋まで運搬した。船の通う山地内川沿いのどの集落にも土場と称する船付場があって,近世には土場運上を納入したところもあった。しかし明治になって道路が改修されて車が通り始め,発電によるダムの築造と相まって,河川の交通上果たした役割は,上流山地で最初に大正期に衰微し始め消えていった。揖斐川上流域の越美山地は,県内第一の多雨地帯で,年降水量も3,000mmを越えるし,冬の北西季節風のもたらす深雪地帯でもあって,揖斐川の水量は年中多く,地形的にも峡流が至るところにあって,絶好の発電適地。本流沿いに4,支流坂内川に2,粕川に2,根尾川に2の発電所がある。特に昭和38年完成の横山ダムは,洪水調節や灌漑用をも兼ねた多目的ダムで,発電量7万kw,農業計画では大垣市ほか7町2村1万871haの灌漑用水を補給,貯水面積1.7km(^2)で洪水調節の役割も果たしている。また計画中の徳山ダム,根尾東谷川のダムが完成されるあかつきには,この山地の持つ水資源がもたらす結果は大きい。渓口に出た揖斐川本流,支流粕川・根尾川は渓口を中心に山麓から,本流は等高線14mあたりの池田町・大野町南端まで,粕川では等高線30mほどの揖斐川合流点,根尾川では等高線14m内外の本巣郡真正(しんせい)町・北方(きたがた)町南部に達する扇状地を展開する。現在は本支流とも河川改修が進んで,両岸に堤防が築造され,河道は定まっているが,過去には扇状地面を網流をなして流れる河道が,洪水ごとに変化する地帯であり,詳細な微地形を調査すれば,網流時代の旧河道を追跡することもできる。渓口付近に見られる房島(ぼうじま)・中島・前島・岡島・福島・島などの地名は網流時代の川島に付けられたもの。近世を通じて北部山村から流送される筏・船・段木には出口で六分一役の税が課されたが,伊尾川六分一と小島川六分一の両番所が当初置かれたのも,出口付近で2派に分流していたためであった。「岐阜県災異誌」の享禄3年6月3日(1530年6月27日)の項に「根尾川洪水。派流藪川を生じ,揖斐川河道を変ず。沿河地方被害多し。此時,本巣郡山口地先真桑方井水口へ切込み,長瀬七郷の内,藪村は澪先にて一村流亡し,新川となり,南して揖斐川に会す。尚揖斐川(当時杭瀬川と称す)は大野郡杉野南西に流れ,不破郡赤坂の東に至りしが,此の洪水にて杉野より南東に流れを変じて現今の川筋となれり」とあるように,およそ現今の河道は,この時に生じたのであるが,小規模な洪水による河道の変遷は枚挙にいとまがなかった。扇状地を流れるところは流れもやや急で,灌漑用水を取水するころになると渇水し,ほとんど流水を見なくなることもあって,可航河川として利用された時も,春冬季のみの利用で,物資も上流のものを下流へ流送するのを主としたが,揖斐付近までは桑名や名古屋からの物資も輸送された。明治29年にできた「岐阜県水災誌」にも藪川の項に「春冬二季舟筏ヲ通ス」とある。同書の記載に信用の置けない点もあるが,このあたりは20石積みの長さ4間位の船が通行したようであった。明治14年の船数を見ると,房島村の135艘,北方村の133艘など本流沿いの各集落に船があって,近代まで内陸水路の利用が盛んであったことがわかる。扇状地末端付近は地下水の湧出するところがあって,ガマと称され地名にも大垣市河間(がま)町がある。扇状地を通過した揖斐川は,後背湿地の中に自然堤防の微高地を持つ低平な濃尾平野を流れ,さらに三角洲からなるいわゆる零メートル地帯から,それに続く干拓地の中を長良・木曽の両大川とともに緩やかに流れ,わが国としては珍しく大規模な平野をつくって伊勢湾に注いでいる。平野部での河名は,笠松郡代堤方役所で常用したのは伊尾川であったが,「新撰美濃志」に「川上は杭瀬川と藪川と落合村の辺にて合流し,呂久川といひ,ここに至りてさわたり川といふ」とあったり,「太田川は村の東にありて舟渡しあり。長良川・呂久川・栗笠川,等所々にて落合ひこゝにて川幅三百間余となる」の記載があって,場所によりそれぞれの呼び名があった。この河川の堆積作用でできた地層中には砂礫から成る帯水層が形成され,大垣市を中心とする西濃平野では,被圧地下水となって井戸を掘れば地下水が自噴し,工業用水にも利用されて工業発展の原動力となり,中心都市大垣が「水都」と言われてきた理由でもあった。しかし工業・農業・飲料として利用が進むにつれて揚水量が増加し,地下水位の低下とともに自噴帯も漸次縮小して,現在は大垣市西部から養老郡にかけての地帯に見られるにすぎなくなった。濃尾平野の低地を流れる揖斐川は,木曽・長良の2大川とともに平野の西部へ漸次集まって流れ,わが国でも有数の洪水常襲地であった。ことに揖斐川流域は標高が低い上に,出水時刻が早く,遅れて洪水の高水位を迎える長良川・木曽川との合流点で堰止傾向となるため,洪水水位を高める結果となって,溢水・破堤などによる氾濫の災害が特に多い地域であった。この洪水対策として生まれたのが輪中で,集落や耕地を守るため輪中堤を築き,輪中を単位とした水防共同体を形成してきた。この輪中は岐阜県を中心に三重・愛知にも少数見られ,明治初年には約80を数えた。輪中地域の生活は農耕をはじめ特殊な生活環境に対応するための住民の知恵が見られる。堤防で川の流路を規定すると,河床が堆積により高くなって天井川となり,排水困難となった輪中内は湛水による作付不良田を生ずる。このため田面の一部を掘りあげて一部の田面を高くして耕作した。堀田(ほりた)がこれで,標高10m以下の輪中地帯に分布する特殊景観であったが,第2次大戦後の土地改良事業で掘りつぶれの埋立が実施されほとんど姿を消した。また輪中堤内の悪水排除の水路をさらに下流へ延長して排水をよくする江下げの工事が実施された。江下げ工事が途中ほかの水路を横切るときは伏越し工事を実施した。天明5年の水門川(大垣輪中)鵜森(うのもり)伏越は水門川を4.5m江下げして揖斐川底を通過させたものであった。また破堤や内水による氾濫から生命を守るためには屋敷地の土盛りによるかさ上げや,さらに一段と高いところを作って水屋を建築するなどの配慮が見られる家もあるが,こうした配慮のできない余裕のない人のために,地主層の屋敷内や集落内の一部に,助命壇または命塚と呼ばれる土盛りがつくられ,中農以上には上げ船と称する小船を避難用に用意した。「岐阜県水災誌」には神護景雲3己酉年8月の洪水から明治29年までの岐阜県における約300回の水害記録をのせているが,その大部分は3大川の流れる濃尾平野のものであり,そのうち揖斐川およびその本支流のものは揖斐川本流の約90回・牧田(まきだ)川約30回・津屋川27回と揖斐川流域の災害記録の多いのに驚く。このため江戸期にも幕府の費用による公儀普請,工費の一部を幕府が負担し残る大部分を国役の百姓人足をもってする国役普請,諸大名に治水普請を手伝わせる御手伝普請,国役人足が免除されていた関係村落が自費で施行する自費請など,いわゆる治水四法のどの方法かで治水工事を実施して,災害の防除や復旧に努めてきた。特に宝暦3年12月外様大名薩摩藩に命じて同4年2月に着手され,同5年3月完工した油島の揖斐・長良両川の締切喰違堤と大榑(おおぐれ)川洗堰の2大工事を中心とした御手伝普請は有名な工事であった。しかしその後も河床の上昇による災害は絶えず,明治期になってオランダ人技師ヨハネス・デレーケの調査設計に基づき明治20年着工,同33年3川分流を成し遂げ同45年すべての工事が完成を見て,3川がそれぞれに伊勢湾に流入することになって漸く揖斐川下流域も水害が激減した。大正期から昭和期になってからも上流部の改修を進めるとともに,下流部でも本・支流の河岸連続堤防の増強工事が進められるとともに,内水排除のための努力も続けられ,自然排水に依存する従来の排水法のほかに,排水機による人工的排水策がとられるようになった。西濃輪中に排水機が初めて設置されたのは,多芸(たぎ)輪中の明治27年。その後国や県の補助もあって高須輪中をはじめ南部の輪中地域に普及して行った。ことに第2次大戦後は排水機の大型化による排水地域の整理統合が行われ,排水能力が高められ,氾濫の災害も少なくなった。以上揖斐川流域を主として洪水常襲地域の自然災害とここに住む人びとの水害への対応について述べたが,低平な西濃地域を緩く流れる揖斐川の本・支流は,地域居住者にとって何の利益ももたらさなかったわけではない。「岐阜県水災誌」によると揖斐川は南濃町駒野の津屋川合流点まで150石以下の川船が通航,さらに上流扇端部の神戸町落合付近までは50石内外長さ4間ほどの川船が通航しているし,支流の杭瀬川・水門川・牧田川下流部・相川(あいかわ)下流部・金草(かなくさ)川・津屋川・大榑川・大江川・中江川なども可航河川であったし,耕作船に至っては堀田へも通じて水路が四通八達し,物資の輸送や農耕に果たした河川の役割はきわめて大きいものがあった。揖斐川筋の主要な船着場は上流では六分一役のあった大野郡北方村と房島村,中下流では久瀬川の大垣湊,牧田川・杭瀬川が揖斐川に合流する付近にある舟付・栗笠・烏江の濃州三湊,大榑川の合流点にある今尾町・石津郡太田村などであった。ことに10万石の城下町にあった大垣船町の大垣湊は,元和6年杭瀬川から水路久瀬川が開削されて,九里半街道で米原湊と連絡する濃州三湊と連絡するに至って,揖斐川筋水運の中心的役割を果たして来たのであった。しかし明治期を迎えて同20年鉄道東海道線が濃尾平野を横切って走るようになったのを契機に,順次陸上交通が発達を続けると同時に,東西輸送を主とする人や物資の動きに対し,南北方向の水路の不利もあって,河川交通は漸次衰微の傾向をたどり,さらに道路の普及による車の利用が進むに及んで致命的な打撃を受け,昭和初期にはほとんど交通路としての地位を陸上交通にゆずった。一方近代から現代にかけて,国や県の事業として続けられてきた河川改修も一応終わって,永年にわたって水禍に悩まされてきた輪中地域も,安全な居住地と考えられはじめていたが,昭和34年8月24日養老町根古地(ねこじ)で牧田川堤防が破れ,さらに同年9月26日に再び同じところが破堤して大害を多芸輪中に与えたし,同51年9月21日には安八町で長良川が破堤するなどの災害があって,輪中地域の水防に対する世論が高まり,地域住民の輪中に対する再認識が要求されるに至った。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7104548