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金華山
【きんかざん】


金花山とも書き,稲葉山(因幡山)・破鏡山・一石山などともいう(新撰美濃志)。岐阜市のほぼ中央部にある山。標高328.9m。古生層チャートから成る。平野に急聳するが,特に北を流れる長良(ながら)川に向かって急崖を向ける。関ケ原合戦以後は幕府直轄地,天和5年からは尾張藩領となる。尾張藩はここを御山と称し留山とし,岐阜代官あるいは岐阜町奉行のもとに山方を置き,その下に山守を置き管理させた。明治6年,陸軍省に所属。同22年からは皇室御料林となり,昭和22年からは国有林となり現在に至る。全山鳥獣保護区に指定され,動植物の種類が豊富なことで全国に知られ,山の約60%はシイ型の常緑広葉樹が占めている(岐阜県の植物)。東山道(中山道)を眼下に見下ろす景勝の地で,昔から多くの和歌や俳句に詠まれ,山頂には斎藤氏・織田氏などの戦国諸将が築城した山城もあった。山名の由来については諸説あるが,伝説の域を出ない。古くは稲葉山(因幡山)と呼ばれており,それは伊奈波(因幡)神社の祭神に由来し,主神の五十瓊敷入彦命が因幡国にあって,のち当地に来たこと。祭神の彦多都彦命(主神の外祖父)が因幡国造であったことによるという(稲葉郡志)。ほかに,神代のころ,皇孫が天降るとき,稲穂をもって雲露を払い,この稲穂が美濃国に飛び来たって稲葉山になったともある。「朝露を払ふ稲穂が天下り みのの稲葉の山となりぬる」(尾濃葉栗見聞集)。金華山については仁明天皇のころ,中納言在原行平が陸奥より金花石を引かせ当地に来たが,その石を残して上洛,のち,その石を金(こがね)大明神と号した(美濃国諸旧記)とあり,「同朝臣,陸奥国金花山よりこがね石を当山に運び来てより以来,稲葉山の一名を金華山ともいへり」(尾濃葉栗見聞集)とある。それより先,一条兼良も「藤川記」に「みねにおふる松とはしるや稲葉山 こがね花さく御代のさかえを」と詠んでいる。一石山・破鏡山の由来も,五十瓊敷入彦命が奥州より金石を持ち帰るとき,同形の石8個があったのを,亡き母の日葉酢媛命(伊奈波神社祭神)の真の金石は鏡を破るというお告げによって,それを見分けることができ,それを持ち帰り厚見(あつみ)県椿原(岐阜県丸山)に置いたら一夜にして36丈の山となった。そこで,一石山・破鏡山という名になったという(因幡社本縁起)。また,「尾濃葉栗見聞集」には「当山の四方をめぐり一見せしに闕欠したる所曽てなし,往古より今に至て唯一石の如くなれば一石山といふ」「当山の北麓は長良川に岩根を洗ふ,巌丈高く立のぼって鏡を立たるが如し,昔より今にいたりて荒波の寄ては帰り,帰りては又打寄せて山の端をみがける故に破鏡山といへるならん」とある。なお,一石山については,昔,方県(かたがた)郡雄総村(岐阜市)に1人の放蕩者がおり,奥州金華山で改心し,小石1個を持ち帰って許しを請うたが,父親はこの石は金華山の石にあらず,偽りをいって自分を欺くのかと,その小石を力に任せて投げたところ,岐阜に飛び一夜のうちに山となったので,一石山と称したともいう(稲葉郡志)。いずれも,宮城県の金華山と金とにかかわっている。昔から稲葉山を詠んだ歌は多いが,中でも「古今集」にある在原行平の「たち別れいなばの山の嶺におふる 松とし聞かば今かへりこむ」が最も知られているが,このいなば山については古来,美濃説と因幡説とに分かれている。ところで,金華山の名称については,「明叔録」に「金華山城,菩提城主竹中遠州子半兵衛,去六日(永禄7年)白昼奪取…」とあり,明応6年のころには「金華降神,岐阜鐘秀」の句が,土岐成頼の画像賛に見えている(岐阜市史)。江戸期,尾張藩主は一代に一度,藩領の岐阜町への巡行を行事としたが,定例的に行ったのは稲葉山の狩猟と長良川の鵜飼見物であった。万治元年12月の2代光友の狩猟の時には鹿85匹・兎5匹・狐1匹の獲物があったという(岐阜志略)。登山道は南から七曲り・百曲り・水の手の3つがあり,水の手口から登るのが最も険しい。現在,金華山は西麓の信長の居館跡を中心に,山の自然を生かして岐阜公園となり,山頂へはロープウェーが通じ,簡単に登ることができる。山頂からは長良川・岐阜市街地を眼下に,遠く東に恵那(えな)山・木曽・御岳(おんたけ),南に濃尾の大平野を展望できる。特に,市街地の夜景はすばらしい。金華山はまた昭和48年放映のNHK大河ドラマ「国盗り物語」で全国的にも知られるようになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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