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新通
【しんとおり】


旧国名:駿河

(近世~近代)江戸期~現在の町名。はじめ1~7丁目,現在は1~2丁目がある。明治5~22年までは静岡を冠称。江戸期は1~7丁目ともそれぞれ駿府城下96か町の1つに数えられた。明治22年からは静岡市の町名。駿府城の南西に位置する。町名は,慶長14年駿府城下の町割りの際,従来の東海道筋であった本通り筋に対し新たに道幅約5間の新通りが設けられ東海道の往還になったことに由来する(駿河志料)。1丁目は旅籠町,2丁目は新通大工町・新大工町,3~4丁目は馬喰(ばくろ)町,5~6丁目は笠屋町,7丁目は大鋸(おおが)町とも称された。2丁目を大工町と称するのは慶長14年の駿府町割りの際武家屋敷町を設定するため上大工町の一部を割いて移転してきたことに由来する(駿河志料)。また7丁目は同様に西寺町の木挽を業とする者を当地へ移転させたため寛永年間には大鋸町と称したという(駿河記)。貞享3年の本家・丁頭家・借家数は,1丁目16・1・11,2丁目25・2・14,3丁目は4丁目とともに43・1・23,5丁目39・1・16,6丁目15・1・10,7丁目16・1・4(府内時之鐘鋳直申ニ付入用集銭帳)。元禄5年の家数・人数・丁頭名は,1丁目17(うち丁頭屋敷1・明屋敷1)・112(うち出家4)・四郎左衛門,2丁目27(うち丁頭屋敷2)・197・清右衛門と庄九郎,3丁目は4丁目とともに44(うち丁頭屋敷1・明屋敷2)・281(うち山伏5・比丘尼1・髪結1)・五郎兵衛,5丁目40(うち丁頭屋敷1)・283(うち比丘尼6・山伏11)・善左衛門,6丁目16(うち丁頭屋敷1)・115・喜右衛門,7丁目17(うち丁頭屋敷1)・121・久兵衛(元禄5年申2月駿府町数并家数人数覚帳)。元禄年間創設の駿府定火消では1~4丁目まで太鼓組,5~6丁目は輪違組,7丁目は斧組に属し,出人足は76人,文政4年創設の町方百人組合火消では府中4組のうち西組に所属(旧版静岡市史)。文化4年2丁目からの出火は駿府32か町1,879軒を焼く近世において最悪の火事となった(静岡市史)。天保13年の「町絵図」によれば,各町は伝馬町人足・定火消人足を出したほか2・7丁目を除いて,御城内御飾人足・両見付并愛染川横内川縁通掃除人足などを出した。2丁目は上大工町とともに札ノ辻町と新通川越町の両高札場修復の負担があり,7丁目も大鋸木挽を無賃で何人も町内から出していた。弘化~嘉永年間の間役・戸数は,1丁目16間役・29,2丁目25間役・51,3~4丁目ともに42間役・75,5丁目39間役・68,6丁目15間役・28,7丁目16間役・39(駿河国雑志)。寺社は1丁目に浄土真宗西教寺,2丁目に浄土宗善養寺,3丁目に当山修験多宝院水晶寺,5丁目に稲荷明神社・当山修験不動堂がある。安倍川に近接しているため江戸期以来しばしば水害に襲われた。明治に入って2丁目は新通大工町が正式名称であったが,大正4年新通2丁目と改称。大正4年の戸数・人口は,1丁目39・264,2丁目85・424,3丁目70・336,4丁目96・432,5丁目125・594,6丁目45・215,7丁目37・200。昭和25年の世帯・人口は,1丁目29・166,2丁目61・311,3丁目48・243,4丁目35・187,5丁目138・673,6丁目64・297,7丁目27・158。大正13年5~6丁目に白山町を編入。昭和20年寺町の一部を編入。昭和36年1~4丁目と5丁目の一部が新通1丁目となる。住居表示実施により昭和41年1・5丁目が新たな新通1丁目,5丁目が駒形通4丁目,6丁目の一部が駒形通5丁目,同45年6丁目の残部と7丁目が新通2丁目となり,同年2丁目に新通川越町・安倍川町の各一部を編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7112222