牧ノ原
【まきのはら】

旧国名:遠江
布引原ともいう。大井川下流と菊川の間に位置する。大井川右岸に広がる洪積台地で,同川の氾濫原が隆起して形成された。北端部の標高270m,南端部の標高40~50m,全長は25kmに及び,北から南へ緩やかに傾斜する。細長い樹枝状を呈し,東方と南東方に2本の分枝が伸びる。明治期までは北端の一部を除き未開拓の原野であった。戦国期には,徳川・武田両氏の抗争中の永禄12年11月武田信玄により諏訪原城が築かれた(現金谷町大字牧野原字元宿)。同城は天正3年徳川家康の攻撃を受け落城,以後徳川氏の属城となる。城名もこの時牧野原城と改称され,のち天正17年頃廃城となる(城郭大系9)。台地全体が牧ノ原と呼ばれるのは明治初年以降で,それ以前は地区ごとに名称が異っていた。「掛川誌稿」は鎌塚原・湯日(ゆい)原など所属村名を冠した原名で呼ばれたとする。早くから牧ノ原と呼ばれたのは江戸期に牧野原村が成立する牧野原城付近で,この地も初めは諏訪明神の存在にちなみ諏訪原と呼ばれていた。「東関紀行」に,「菊川をわたりていく程もなく一村の里あり,駒場とそいふなる,奥より大井川をわたしけれは……」と見える駒場は,行程からみて牧野原城付近に比定されるので,古くは馬牧が存したのであろうか。牧ノ原の地名も牧場であったことに由来すると推定されるが,一説には,周の武王が殷の紂王を牧野に敗った故事にちなみ,徳川家康により命名されたという(武徳編年集成)。
【牧野原村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【牧ノ原(近世)】 江戸期~明治22年の地名。
【牧ノ原(近代)】 ①明治22年~昭和46年の金谷町の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7114264 |




