半原藩
【はんばらはん】

(近代)明治元年~明治4年の藩名。三河国八名郡半原に居所を置く譜代藩。明治元年3月武蔵岡部藩主の安部信発が,「岡部陣屋之儀,高少之儀」を理由として新政府に居所替えを申請し,同年4月居所を従来から三河飛地領を支配していた半原陣屋に移して立藩した。しかし,この居所替えの理由は表向きのもので,明治元年の鳥羽・伏見の戦後,いち早く新政府に恭順を表明したことから,江戸に程近い岡部陣屋では幕府軍との衝突が避けられず,また関東で頻発していた百姓一揆に襲われることを憂慮したための策であった。半原陣屋では,従来の代官宅を居館にあて,藩庁と藩士屋敷の建設に着手したが,藩庁は未完成に終わった。藩領は,三河国八名・宝飯(ほい)2郡,武蔵国榛原郡,摂津国豊島・有馬・能勢・川辺4郡,上野国勢多郡,丹波国天田・何鹿2郡の5国10郡において2万250石余(実高2万2,230石)で,飛地領支配のため武蔵国岡部と摂津国桜井谷に陣屋を置いていた。「旧高旧領」に見える三河国内での当藩領は,宝飯郡江・鵜飼島の2か村・725石余,八名郡半原・賀茂・小畑(一部)・八名井・黒田・下宇利・中宇利・御薗・塩沢(一部)の9か村・5,645石余。なお,安部氏は,今川の遺臣安部元真が浜松時代に徳川家康に仕え,その子信勝が天正18年家康関東入国時に武蔵国榛沢郡岡部に移り,武蔵国榛沢郡・下野国梁田郡に5,250石余を与えられて旗本となった。寛永13年3代信盛は三河国八名・宝飯郡に4,000石を加封され,旗本としては最高に近い石高になった。慶安2年大坂定番役を命ぜられ,摂津国豊島・河辺・能勢・有馬4郡で1万石を加増されて計1万9,250石余となり,大名に列して岡部藩主となった。この時藩名を摂津国瓜生藩もしくは三河国半原藩と称したとの説があるが,菩提寺の所在地などから疑問である。寛文元年下野国梁田郡の領知が上野国勢田郡内に替地になり,翌2年摂津国能勢郡の地が同国豊島郡に移されている。同年4代信之は弟信秀・弥平にそれぞれ1,000石ずつを分与し,岡部藩は1万7,250石余になった。同4年の藩領は,武蔵国榛沢郡9か村・4,377石余,摂津国豊島郡12か村・3,806石余,有馬郡2か村・1,615石余,河辺郡4か村・1,484石余,能勢郡3か村・1,093石余,三河国八名郡7か村(中宇利・下宇利・庭野・八名井・御薗の各村および黒田村・養父村の各一部)・3,324石余,宝飯郡2か村(江・鵜飼島)・675石余,上野国勢多郡(村名より新田郡の誤り)4か村・874石余,計43か村・1万7,250石余であった(寛文朱印留)。寛文8年信之は大坂定番就任とともに三河国宝飯郡内に3,000石を加賜され,次いで5代信友も天和2年大番頭就任後,丹波国天田・何鹿郡内に2,000石を加増された。6代信峰は弟信方に2,000石を分与,以後岡部藩の石高は2万250石余で変動することがなかった。明治初年藩校学聚館が創立。「藩制一覧」によれば,当藩の草高2万2,228石余,正税米5,829石余,戸数3,029。なお,士・卒族は224戸と見えるが,半原陣屋に移住したのは130戸前後と推定される。明治2年6月版籍を奉還して信発は藩知事となる。同4年7月の廃藩置県により半原県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7122302 |