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金剛証寺
【こんごうしょうじ】


伊勢市朝熊(あさま)町字岳にある寺。臨済宗南禅寺派。勝峯山兜率院と号す。本尊は福威智満虚空蔵菩薩。伊勢神宮の鬼門(北東)に位置し,神宮鎮護の霊場として知られる。当寺の開創伝説について,室町期の応永~文安年中に成立したと考えられる「朝熊岳儀軌」(神道大系神社編14)には,天長元年空海(弘法大師)が大和国鳴川の善根寺で求聞持法を修した際の霊告により翌2年朝熊山に入山,山中で天照大神の託宣をうけて面足(おもだる)・惶根(かしこね)尊降臨の時に建立された仏閣を再興したという。この地は欽明天皇の時暁台和尚が求聞持法を修した霊地という(同書)。しかし「三国地誌」では教待和尚の開いた古梵刹とする。教待は「本朝神仙伝」に園城寺を円珍に譲った人物としてその所伝がのる不老長寿の神仙的人物で,彼を開創者にあてるなど縁起の真憑性には疑問が残る。しかし,古くからの山岳宗教の霊場とされ,平安後期には虚空蔵信仰と天照大神を祀る伊勢信仰が結び付いて寺勢を伸長させたと考えられる。当寺は伊勢・志摩両国の分水嶺を形成する550m余の標高をもつ朝熊山中に所在し,近隣の西伊勢・鳥羽地方の人々にとって農耕神(山の神)・海の神(航海神)のいます霊山として信仰を集め,平安末期頃からは死者の追善供養や功徳を目的とする如法経の埋経が盛んとなり,荒木田・渡会(わたらい)氏など神宮神官による納経も行われた(同前)。鎌倉末期から南北朝期の内乱によって寺基の荒廃を招いたが,「寺伝」によると,明徳3年鎌倉建長寺の5世住持東岳文が中興開山として堂宇の再興に努め,禅刹として復興したと伝え,東岳に仏地禅師の謚号をあてている。だが,「扶桑五山記」などで見る建長寺5世は来朝僧無学祖元(仏光国師)であり,仏地禅師も通常は鎌倉円覚寺13世雲屋慧輪をあてることから上記の寺伝については疑問が残る。近世期に入り,京都南禅寺の末寺となり(寺格帳/続々群12),度会郡神村内で100石の朱印寺領を給され(寛文朱印留),幕府の保護をうけた。一方,中世末期から次第に人々の間に広まった伊勢詣では,「伊勢へ参らば朝熊をかけよ,朝熊かけねば片参宮」という俗謡が生まれるほどに当寺に対する信仰が集まった。また近隣地域(伊勢市・度会郡・鳥羽市・志摩郡など)では,当寺山中を物故者の霊の集まる所として,タケ参りと総称される当寺参詣が広く行われる。現在,11万余坪に及ぶ広い境内には,慶長14年岡山藩主池田輝政造営の本堂(摩尼殿,国重文)のほかに求聞持堂・釈迦堂・開山堂・明星堂・総門以下の堂宇がたち並び,奥の院(呑海院)へ通じる参道には国司北畠氏や九鬼氏の供養碑と死没した親族追善のために建てられた無数の角柱五輪卒塔婆が林立する。寺宝として,承安3年在銘の陶製経筒,平治元年在銘の銅製経筒,同年奥書をもつ経巻・銅鏡・土製外筒などの経ケ峰経塚の第1・第2・第3経塚出土の埋納品(国宝)のほか,国重文指定の木造雨宝童子立像・銅造双鳳鑑・伝吉包作太刀・紙本著色九鬼嘉隆像の4件を所蔵。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7126913