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鈴鹿山脈
【すずかさんみゃく】


三重・岐阜両県と滋賀県との境をなし,南北に走る山脈。北は関ケ原の狭隘部で伊吹山地,南は加太(かぶと)越えで布引(ぬのびき)山地に接続する。延長約50km。北部の御池(おいけ)岳(1,242m)を最高峰に,鈴ケ岳(1,103m)・藤原岳(1,120m)・竜ケ岳(1,099.6m)・釈迦ケ岳(1,092.2m)・御在所山(1,209.8m)・鎌ケ岳(1,161.0m)・仙ケ岳(961.0m)など1,000m内外の峰が連なる。基盤は砂岩・頁岩・チャートのほか石灰岩を含む古生層で,南部には中生代に迸入した花崗岩類が広く分布する。東西を断層で限られた地塁山地で,山頂付近には第三紀以前の準平原化に伴って生じた平坦面が各所に残っている。傾斜は東に急,西に緩やかで,このため伊勢平野に流下する河川は短いが,急な上流部をもち,山麓部に扇状地をつくる。近江盆地へ流れる河川は比較的緩やかで,山間部にダム構築を容易にしている。鈴鹿の名は山に生い茂るスズタケに由来するといわれるが(地名辞書),定かではない。古来畿内と東国とを結ぶ交通路上の一大難所に当たり,奈良期までは山地の南北縁を迂回する道がとられ,「日本書紀」天武天皇元年6月の条(壬申の乱)に「自伊賀積殖山口,越大山,至伊勢鈴鹿,発五百軍士,塞鈴鹿山道,鈴鹿関司遣使奏了」とあるのは南縁を通る加太越えであった。また鈴鹿の関の名もここに記され,当時の要路であったことがうかがわれる。鈴鹿峠越えの道は平安期以後の利用と推定され,山地に跳梁した盗賊誅殺の記録(日本紀略)や,説話(今昔物語集29の36),あるいは坂上田村麻呂の山賊退治伝説(太神宮諸雑事記)などにしばしば鈴鹿山の名が現れる。鈴鹿山とは,鈴鹿山脈南端の鈴鹿峠(関町坂下)を中心とする山々の総称で,古くは愛発(あらち)・不破,新しくは逢坂・箱根と並び称される三関の1つ。また,歌枕としても用いられ,「鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになりゆく我が身なるらむ」(新古今集)がある。ほかに,村上天皇が天暦11年に詠んだ「思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく」(拾遺集),「ふりはへて問はぬ鈴鹿の山道にいとどや冬は雪隔つらむ」(斎宮集)など鈴鹿山を詠み込んだ作品が以後多く現れている。鈴鹿峠越えは,以来現代に至るまで鈴鹿山脈越えの最重要路としての位置を保ち続けている。現在,国鉄関西本線・国道1号(東海道)・国道25号(名阪国道)など交通幹線はすべて,加太越えまたは鈴鹿峠越えのコースをとる。鞍掛(くらかけ)・治田(はつた)・八風(はつぷう)・武平(ぶへい)・安楽(あんらく)など多数の峠が間道として利用されてきたが,今では鞍掛・武平の両峠がトンネルにより自動車交通可能となっているにすぎない。冬に季節風が若狭湾から伊勢湾に吹き越える際,運ばれる雪雲の影響により,山地北部では積雪が多く,また南部でもしばしば時雨がある。能宣朝臣の「下紅葉色々になるすずか山 時雨のいたく降ればなるべし」(風葉集)など時雨を詠んだ歌が散見される。また「坂は照る照る鈴鹿は曇る,あひの土山雨がふる」の鈴鹿馬子唄も,木枯しの吹く初冬の頃の,山脈を隔てた東西の天気の違いの様子を歌ったものと推定される。山地の動植物の中には貴重な種類のものが多く,ニホンカモシカ・キリシマミドリシジミ(蝶)は国特別天然記念物,ベニドウダン・アカヤシオなども代表的な植物である。山頂に近い標高800m以上の部分は落葉広葉樹林のブナ帯,その下は常緑広葉樹林のカシ林が卓越する。豊富な山地資源に生活を依存した木地師が活動した場として知られる。文徳天皇の皇子惟喬親王を祖先として祭祀し,長く独特の生活習慣を維持してきた山人たちであるが,現在は山地一帯に残る地名や民俗行事によって往時を知り得るにすぎない。山脈の主要部は昭和43年7月鈴鹿国定公園に指定された。うち当県域の指定面積は1万2,710ha,四季を通じて観光・登山客でにぎわう。ことに御在所山上には東麓の湯の山温泉と結んで延長2,159mのロープウエーが通じ,観光客の大部分がここに集中する。夏のキャンプ,冬のスキーなどの適地も多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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