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北勢
【ほくせい】


三重県の地域区分の1つ,北伊勢の略称。県の北部,かつての伊勢国の北部に当たる。東は伊勢湾に臨み,北は養老山地により岐阜県に,西は鈴鹿山脈によって滋賀県に接する。大部分が伊勢平野の北部で,北東部は木曽・長良・揖斐(いび)の木曽三川の下流デルタ地帯で濃尾平野に続く。北から員弁(いなべ)・朝明(あさけ)・三滝・鈴鹿の諸川が伊勢湾に注ぐ。養老山地は700~800m級の傾動地塊で,東の濃尾平野に急傾斜して臨み,西の員弁川の谷へは緩傾斜して丘陵地を形成している。山稜は南に向かって次第に低くなり多度山(403m)で終わっている。鈴鹿山脈は滋賀県との境を南北に走り,北の御池岳(1,241m)を最高に,藤原岳(1,129m)・竜ケ岳(1,100m)・御在所(ございしよ)岳(1,210m)・鎌ケ岳(1,157m)など1,000m級の山々が連なり,東側に急傾斜し滋賀県側に緩やかである。山麓部に扇状地の発達が著しい。員弁台地や鈴鹿山麓の台地は開析の進んだ隆起扇状地で,縁辺部には段丘が発達している。朝明川・三滝川がつくる朝上扇状地は現在も堆積物の供給が続いているので古い扇状地を覆うように分布している。北勢平野にはこのような台地状の地形が何面もある。沖積地は濃尾平野に続くデルタ地帯最大で,各河川の沿岸や海岸沿いに分布しており,沖積層の厚さも50mに達する。これより次第に南下するにつれて浅くなり,鈴鹿市南部で10m未満になる。北勢平野の大きい問題は地下水汲上げによる地盤沈下で,輪中地帯では海抜0m以下の所もある。当地方の気候は標準的な東海型で,年平均気温14~15℃・年降水量1,800mm内外である。海岸部の四日市市は15.3℃・1,739mmであるが,北部の阿下喜(あげき)は14.6℃・2,199mmで,内陸的で冬の降水量が多い。冬の季節風は養老山地と鈴鹿山脈との間を吹き抜け,員弁の谷では冬に積雲が多い。当地域は行政上桑名・四日市・鈴鹿・亀山の4市と員弁郡の北勢町・藤原町・員弁町・大安町・東員町,桑名郡の多度町・長島町・木曽岬(きそざき)町,三重郡の朝日町・川越町・楠(くす)町・菰野(こもの)町,鈴鹿郡の関町を含み,4市13町からなる。面積は1,103km(^2)・人口68万2,875人(昭和55年国勢調査),人口密度1km(^2)当たり619で,これは県全体に対して面積は19.1%,人口は40.5%に当たり,人口密度も県の292.2の2倍以上である。また昭和50~55年の人口増加率は14.8%で,県全体の3.7%に比べて高率で,本県で最も生産的な地域ということができる。「和名抄」によると北勢地方には桑名・員弁・朝明・三重・河曲(かわわ)・鈴鹿の各郡が置かれた。壬申の乱に際して大海人皇子は伊賀から加太を越えて伊勢に入り,鈴鹿郡家に着いて鈴鹿越えの道を固めさせ,自らは川曲の坂下をすぎて三重の郡家に達した。その翌朝,朝明郡迹太(とお)川の辺で神宮を遙拝して桑名郡家に駐留している(日本書紀)。この経路が古代の東海道を暗示している。現在の鈴鹿市に国府・国分寺が置かれて,この付近が伊勢国の政治・文化の中心であった。奈良期に大安寺・東大寺などの荘園が当地方に開かれており,一方応和2年三重郡が,寛仁元年朝明郡が神宮領となり,令制の衰退とともに神宮荘園として御園・御厨に変質していった。そのことは「神鳳鈔」により四日市市内でも50余か所の地名を拾うことができる。11世紀初め,伊勢国司として活躍した平維衡の子孫は伊勢の各地に土着して伊勢平氏と称せられるにいたった。北勢に住んだものに,富津二郎清綱・桑名三郎左衛門尉維綱・桑名九郎良平・桑名弥平太良基の名をあげることができる(県史)。南北朝対立の頃は,南朝方の北畠氏が伊勢国司として南勢に勢力を張ったのに対して,北勢には北朝方の守護高師秋・仁木義長が対立した。戦国争乱期には北勢の各地にも土豪が対立相抗争したが,織田信長が永禄10年滝川一益をしてこれらの土豪を相次いで打ち破った。しかし長島の願証寺のみは石山本願寺の配下にあり,2万を超える一向宗徒を結集して天正2年まで抵抗した。天正3年四日市の浜田城主田原天綱が滅ぼされて北勢を支配下に置いた(信長公記・太閤記)。関ケ原の戦後西軍についた桑名の氏家行広,亀山の岡本宗憲,神戸の滝川雄利らは除封され,徳川家康は桑名に重臣本多忠勝を封じ,四日市は分立して幕府領とした。また神戸に一柳直盛,菰野に土方雄氏,亀山に三宅康直を封じた(寛政重修諸家譜)。その後,藩主の交代があって明治維新に及んだ。明治4年廃藩置県に際し,北勢の各藩領・幕府領は合わせて安濃津県に入った。県庁舎が津にあるのを不便として,明治5年安濃津県参事丹羽賢が県庁を四日市の旧陣屋に移し,県名も三重県と改めた。同6年県参事岩村定高は再び県庁を津に戻し,同9年三重県と度会県を合併するも県名はそのまま存続して今日にいたった。当地域の特色は工業の進展の著しいことである。四日市市を中心とする臨海工業地域および鈴鹿市を中心とする内陸工業地域と,これらを核心とする周辺の工業地帯を合わせて北伊勢工業地域を形成し,中京工業地帯の一環となっている。当地方には,江戸期に在来工業として鋳物・なたね油・万古焼・製糸・漁網・醸造などがあったが,明治19年三重紡績が設立され四日市に本社を置き,工場を四日市内外にもち綿糸紡績を始めた。三重紡は大正3年東洋紡となり,県内でも桑名・四日市・三重郡などに工場をもった。万古焼も四日市を中心に発展し,生産物の種類も増え,輸出を企てるにいたった。昭和になると四日市港の重要輸入品である羊毛を原料として,市内外に毛織物工業がおこってきた。漁網工業も海外の好況に支えられて発展して四日市港の重要輸出品となった。さらに四日市に日本板硝子・石原産業などの工場が建てられるなどして四日市の工業都市としての成長が続いた。戦時体制下では,繊維工場は軍需工場化し,四日市に海軍燃料廠,鈴鹿市に海軍工廠ができたが,多くは戦争末期の空襲により壊滅的な攻撃を受けた。戦後の復興期を経て昭和30年代に入り,旧海軍燃料廠跡に昭和四日市石油・三菱油化が設立されたのを契機に,わが国有数の石油化学工業の基地となった。塩浜地区の三菱グループを中心とする第1コンビナート,午起(うまおこし)地区に大協石油を中心とする第2コンビナートが建設され,さらに霞ケ浦地先の埋立地に第3コンビナートが建設されつつある。また鈴鹿市から亀山市へかけての内陸地域には繊維工業のほかに本田技研工業・川崎電機等の機械工業が進出し,田園都市鈴鹿市も工業都市へと変貌してきた。これに続いて周辺町村への工場誘致が相次いで行われた。このようにして北伊勢工業地域を形成するにいたった。昭和55年の県工業統計によると,事業所数5,036で全県の46.3%,従業員数10万5,210人で全県の52.5%,製造品出荷額等は3兆1,035億円で全県の69%を占め,当県第一の工業地域となっている。当地域の農業について注目すべきは茶栽培とマンボである。鈴鹿山脈の東麓に広がる台地・扇状地を利用して明治以後茶と桑の栽培が進められた。養蚕業の衰微とともに桑園は縮小したが,茶園化は盛んである。四日市市・鈴鹿市・亀山市にまたがり,当県茶園面積の70%以上を占め,特に内部(うつべ)川扇状地に多い。茶栽培のみならず製茶業も行われ,当県における一大茶業地域を形成している。昭和56年農林水産統計によると四日市市2,170t・鈴鹿市2,037t・亀山市927t。次に鈴鹿山脈の東麓から北東麓にかけてマンボまたはマブと呼ばれる横穴式暗渠による地下集水灌漑が分布する。員弁郡・三重郡・鈴鹿市・亀山市を主とし,北は岐阜県,南は伊勢地方にも若干分布する。このうち代表的な内部川扇状地についてみると,表土の保水力が弱い地層で表流水を得にくいために,明治期になって急速に普及し,この扇状地のみで約40を数えることができ,水田200haに灌漑している。主な都市についてみると,桑名市は「日本書紀」に桑名郡家,「和名抄」に桑名郷の名が見える。伊勢湾と木曽三川の接触点にある港市として早くから栄え,商人の来往も多く,連歌師宗長が大永6年に通過した時,その繁栄ぶりを日記に記している。富裕な商人により自治が行われていた。この港町・市場町としての機能に,近世になり城下町・宿場町としての機能が加わり,海上七里の渡しの発着点として栄え,北勢第一の都市となった。明治以後の変革,近代交通機関の発達はこの町にも打撃を与えたが,鋳物工業をはじめとする各種工業の発達や,名古屋の近郊としてベッドタウン化の傾向が強い。四日市市は文明年間に田原忠秀が築城し,東海道と交差する道路に市場ができ,市場町の基が置かれた。江戸期には東海道の宿場町,伊勢湾航路の港町として発展した。明治32年伊勢湾ではじめて開港場となって,港域を拡大し港勢も躍進した。この市の発展が工業に負うことは既述の通りである。また四日市港は貿易額1兆円を超え(昭和54年),わが国第10位の貿易港である。鈴鹿市の地は古代伊勢国の中枢地域で国府・国分寺・国分尼寺が設けられた。武家の世になると中心勢力がなく土豪が相争い,近世以後も幕府領・藩領が錯綜した。第2次大戦中軍施設をつくるために河芸郡・鈴鹿郡の14か町村が合併されてできた新市である。戦後さらに周辺地域を合併した。旧軍施設に工場誘致が進み工業都市へと変貌し,四日市に次ぐ県下第二の工業都市となった。古い歴史をもつ神戸・白子地区に対して,平田町を中心に新しい市街地が形成されている。また丘陵地を利用して鈴鹿サーキット(133ha)や青少年の森(58ha)などの大規模な都市公園が開発された。亀山市は中世関氏の居城があり300年の歴史をもつが,天正年間岡本宗憲が新城を築き,城下町の基礎となった。爾来藩主の交代はしばしばあったが,東海道の宿場町を兼ねて栄えた。明治期になり鉄道が開設され,現在の国鉄関西本線と紀勢本線の分岐点となった。また鉄道関係の施設があり国鉄の町となった。新たに国道1号が市街地を避けて開通し,名阪国道ができて交通都市の性格が濃い。生糸・ロウソクの生産が多い。当地域の交通機関をみると,国鉄関西本線が名古屋から桑名・四日市・鈴鹿・亀山を経て大阪に向かい,紀勢本線は亀山から津・松阪を経由して紀伊半島を一周して大阪に向かう。四日市~津間に伊勢線がある。私鉄の近鉄名古屋線は桑名・四日市・鈴鹿市を経由し,桑名から北勢線(阿下喜まで),四日市から湯の山線(湯の山温泉まで)・内部線(内部まで)の支線を出し,富田~西藤原間に三岐鉄道がある。道路交通の発達につれて国道1号・23号が整備され,名阪国道の開通をみた。観光資源も豊かで,鈴鹿山脈のほぼ全域が鈴鹿国定公園に指定され,御在所岳や湯の山温泉などへの観光客が多い。輪中地帯には水郷県立自然公園や千本松原県立自然公園,鈴鹿市の海岸は伊勢ノ海県立自然公園となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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