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安楽寿院
【あんらくじゅいん】


京都市伏見区竹田内畑町にある寺。真言宗智山派。本尊阿弥陀如来坐像。「百錬抄」保延3年10月15日条に「上皇供養鳥羽東殿御堂〈安楽寿院〉」とあり,鳥羽上皇によって創建された。保延5年2月22日には三重塔が落成。上皇は久安元年12月17日にはこの頃新造していた鳥羽御所に赴いたが,「抑安楽寿院者,法皇終焉之地也,是故渡御」(台記)とあり,上皇は自らの終焉地をこの地に定めていたという。保元元年7月2日上皇はこの地で死去。この堂を本御堂と呼ぶのに対して,鳥羽中宮美福門院得子によって久安3年8月11日に建てられた九体阿弥陀堂を新御堂と呼ぶ(百錬抄)。このほか不動明王堂が久寿2年2月27日に(兵範記)造立されている。鳥羽上皇は康治2年に山城国芹川荘以下13か荘,興善院以下末寺2か寺,橘木社以下末社2か社を安楽寿院領とした(太政官牒案・安楽寿院古文書/平遺2519)。また新御堂の塔頭領として美福門院は平治元年9月29日に山城国久世荘以下10か荘を寄進し,ここに中世大覚寺統の経済基盤の重要な部分を占める安楽寿院領が成立する。上皇と美福門院との子八条院暲子に伝領されて八条院領となる。さらに嘉元4年までの間に40か荘余が寺領となっており(昭慶門院御領目録,嘉元4年6月12日付),鎌倉末期には後醍醐天皇に渡るが南北朝期には分散した。鎌倉期永仁4年8月30日に法華堂が焼亡(続史愚抄),天文17年11月30日には不慮の出火で回禄した(安楽寿院古文書)。天正13年には豊臣秀吉によって2,500石が寄進され,徳川家もこれを認めている(同前)。現在の殿舎は慶長年間に豊臣秀頼が造進したもので,「雍州府志」には「坊舎十二所」としている。寺宝に本尊のほか絹本著色孔雀明王像・絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図などがあり,国重文。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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