稲屋妻城
【いなやづまじょう】

旧国名:山城
(中世)室町後期に見える城郭名。山城国相楽(そうらく)郡のうち。木津川中流西岸,現精華町北稲八間字城山に比定されている。「大乗院寺社雑事記」文明17年10月14日付条に「山城国ニ右衛門佐方之城共ハ十ケ所計有之……〈本人〉稲屋ツマノ城」とある。「稲屋妻庄」の公文進藤氏の居城で,応仁の乱後,西軍畠山義就が山城に侵入し,義就方の手に落ちたことが知られる。山城国一揆の成立後はその位置,規模からして一揆の中心的拠点となったが,明応2年9月の国一揆崩壊とともに幕府方の手に陥落した。その状況を「大乗院寺社雑事記」の同年9月11日の条は「国衆共数百人閉籠稲屋妻城之処,井上九郎手与令合戦」と書いている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7136732 |