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玉井荘
【たまいのしょう】


旧国名:山城

(古代~中世)平安期~室町期に見える荘園名。山城国綴喜(つづき)郡のうち。東大寺領。木津川中流域右岸,支流玉川(水無川)の合流点付近,井手町井手の玉水付近に比定される。玉井の地名は玉川の古名を起源とするが,すでに「続日本紀」天平12年12月14日条には「従禾津発到山背国相楽郡玉井頓宮」と見える。「枕草子」168段には「井はほりかねの井・玉の井」とあるが,玉の井は伏流水の玉川を呼んだもので,歌枕として多くの和歌に詠まれた。荘園としては「東大寺要録」に「諸国諸庄田地〈長徳四年注文定〉……綴喜郡玉井庄本地卅六町〈但六町法花寺被取云々〉」とあるのが初見。次いで天喜2年2月23日付で一国平均役を免除した官宣旨に「応早任先例免除東大寺玉井庄」と見え(石崎直矢氏所蔵文書/平遺709),「件庄者本願聖皇去天平宝字年中勅施入」とされているが未詳。大治5年3月13日付の東大寺諸荘文書并絵図等目録には,聖武天皇の「天平宝字四年七月廿三日勅施入文」も見えるが現存しない(百巻本東大寺文書/平遺2156・2157)。当荘は井手寺・石垣荘との境相論によって著名である。天喜4年7月2日付の石垣荘住人等解案で,同荘との境相論が起こったことが知られるが(東大寺文書/平遺805),この相論は同年秋には深刻な用水相論に発展した(同前/平遺811~813)。以後,この相論は永続し,永久年間には井手寺・石垣荘が玉川の上流を堰き止めて玉井荘に引水させず,たまりかねた当荘の荘司・住人らが井水を切り落とさんとしたところ,石垣荘民らは「其数発集,持種々器杖,企致打陵礫」てたという(同前/平遺1873)。天治2年には東大寺が紛争に終止符を打つべく実検使を派遣,両荘間で水を均分させようとしているが(京都大学所蔵文書/平遺2044),以後も相論は続いている(同前/平遺2432)。この間,天喜6年7月には使庁官人の譴責にたえず住人が逃散(東大寺文書/平遺890),永保元年5月にも同様の事態が起こっている(石崎直矢氏所蔵文書/平遺1184)。また,天永3年末に注進された当荘の四至は,「限東山,限南川原,限西泉河,限北公田」とあり,大治3年7月の東大寺領荘園目録による地積は,田8町・畠8町余となっている(東大寺文書/平遺1789・2119)。鎌倉期に入って承久の乱後,当荘にも武士の狼藉を停止する官宣旨が下っているが(東大寺要録),鎌倉中期には悪党の台頭が見られ,建治3年3月,前下司木工助頼氏が「武□(威)張権勢,以新儀,号大番而配催数多人夫,構猛悪」と百姓から訴えられている(同前/鎌遺12675)。正応2年11月には悪党との関係であろうか,荘民の狼藉が預所から報じられる有様となった(東大寺文書7/大日古)。下って永享3年8月17日の「御前落居記録」によれば,当荘は将軍足利義満の時期に欠所となり,東大寺八幡と春日若宮の灯油要脚に寄進されたものとなっているが,この年の裁許でそれがくつがえされ,改めて東大寺に還付されている。しかし応仁の乱が起こって,文明年間には大内政弘の南山城進駐によって東大寺の知行は不可能になった。「大乗院寺社雑事記」文明13年6月の東大寺別当職条々によれば,大内氏の進駐によって当荘が不知行となり,二月堂後七日本供米が欠如,そのため東大寺寺務が辞職し,「同九年以来寺務未補」という事態となっている。なお,当荘の荘官は下司・公文・荘預・職仕という構成で,うち下司については平安中期から鎌倉期まで断続的ながらも補任の状況を知ることができる(東大寺文書・狩野亨吉氏蒐集文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7142369