長坂
【ながさか】

旧国名:山城
(中世)鎌倉期から見える地名。山城国愛宕(おたぎ)郡の西限あたり,京都から丹波に至る途中,鷹ケ峰から杉坂にかけての山道と,その付近一帯をいう。京都七口の1つ。初見史料は,「源平盛衰記」に木曽義仲の没落を述べて,「木曽は此彼を打破て,東を指て落ち行けり。竜華越に北国へ伝とも聞けり,長坂にかゝり,播磨へ共云けり云々」とあるものか。文永3年正月日,主水司氷室田畠注進状には,「長坂氷室」の料田が,愛宕郡内の上粟田郷土上里十二坪・出雲郷額田里十八坪・廿八坪,錦部郷布世里三坪・卅五坪にそれぞれ存在したことを記し(広島大学所蔵氷室文書/鎌遺13‐9493),この地に主水司の氷室が設けられていたことが判明する。もっともこの氷室は,早く「延喜式」に,「凡運氷駄者。以傜丁充之。山城国……愛宕郡小野一所。栗栖野一所。土坂一所。賢木原一所。〈並二丁輸一駄〉同郡石前一所。〈一丁半輸一駄〉」とあるうちの土坂一所に当たり,「土」は誤記かとされている(地名辞書)。位置は現在の北区西賀茂西氷室町に比定される。長坂は京都の出入口の1つとして,かなりの往還があったらしく,「康富記」の文安6年4月13日条に見える,「去十日同十二日大地震之故,……若狭海道小野長坂之辺山岸等崩懸,荷負馬多斃死,人亦数多被計(打カ)殺云々」という記事からそれが推察される。京都をめぐる合戦に際して,軍勢の進攻・撤退の道としてもしばしば史料に登場する。「源平盛衰記」の記事のほか,「太平記」には,建武3年6月,新田義貞らの軍が京都へ攻め入ろうとした時の軍勢の動きを述べ,「北丹波道へハ,大覚寺ノ宮ヲ大将トシ奉テ,額田左馬助ヲ被遣。其勢三百余騎,白昼ニ京中ヲ打通テ,長坂ニ打上ル」と記しており,「梅松論」は,同月晦日の義貞軍の退却を,「すでに義貞あぶなく見えしかども,一人当千の勇士共折ふさがりて命にかはり討死せし間,二三百戦に打なされて,長坂にかゝりて引とぞ聞えし」と描写する。「園太暦」文和元年閏2月20日条には,北畠顕能・楠木正儀らの入京により足利義詮方が追い落とされた状況を,「上辺没落軍士横行,多川原上賀茂辺過之,懸長坂路没落,是奥州(細川顕氏)手也」と記す。また,「永正十七年記」によると,細川高国の入洛,「数万軍勢自諸口討入,自丹波内藤出張人衆八千計,自長坂口村於舟岡山於七社辺居陣云々」という状況であったという。このような要地であったために,ここには早くから関所が設けられた。元弘3年5月24日,内蔵寮等目録に,「一,長坂口率分,毎月二貫五百文,見参料三貫文,但為武家近年被止之畢」と見え,すでに鎌倉末期内蔵寮の率分関が設けられていたことが判明する。幕府がいったん停止したらしいが,その後室町期~戦国期にまで存続を示す史料がある。「教言卿記」応永15年4月30日条に,「一,長坂・四宮川原御年貢到」とあり,関所を管領した山科家に率分所年貢が収納されたことが知られ,「山科家礼記」文明2年10月16日条には,同家の長坂口関当知行を安堵すべき旨幕府に伝える後土御門天皇女房奉書案が記録されているし,同12年1月4日条には,奥田隆戒なるものの長坂口代官職請文案が見えて,代官が置かれていたことがわかる。この関所のほかに主殿寮の率分関が設けられていたことも,文和4年3月26日,後光厳天皇綸旨案に,「□□(主殿)寮領小野山長坂口兵士事,供御人致其沙汰,可専公役之由,可被下知」とあることによって知られる(主殿寮諸領綸旨院宣符案)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7143017 |