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西岩栖院町
【にしがんせいんちょう】


旧国名:山城

(近世)江戸期~明治2年の町名。新町通上御霊前通上ル東入の町。木之下通より西側を西岩栖院町とよんだものか。当町付近は,寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図には「かんせい辻子」と見え,「宝暦町鑑」以降は「東岩栖院町」「西岩栖院町」の2町が記される。また別称として,天明6年洛中洛外大図や「文政三年軒役」には「岩栖院片原町」が見える。町名は,この地に管領細川満元の邸宅があり,死後岩栖院と諡号され,またその宅を寺院とし岩栖院としたことによる。当町北側には,目貫後藤といわれ,代々将軍家に仕え,刀剣金具製作を行い,江戸期,家彫とされ,金工界の頂点に位置した後藤勘兵衛家の屋敷があり,「宝暦町鑑」には,当町を「後藤勘兵衛町」と記す。寛永14年洛中絵図によれば,東からひとつながりに七郎兵衛・又左衛門・覚乗・甚兵衛・長乗の各屋敷が順に西へ軒を連ねている。当町の屋敷は,長乗が徳川家康より旧岩栖院を拝領したことにはじまる。長乗の息,覚乗は,目貫彫金の家職を継ぎ,目貫後藤勘兵衛家の祖とされる。また,屋敷の庭園は擁翠園として知られる。しかし明治維新後の廃刀令によって没落し,一時三井家の別邸となり,のち京都地方貯金局となった。また,後藤屋敷の裏藪は,御公儀藪であった。なお,木之下の後藤町にも,後藤家屋敷があった。上立売九町組枝町拾町組。明治2年東岩栖院町と合併し,岩栖院町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7143420