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妙満寺
【みょうまんじ】


京都市左京区岩倉幡枝町にある寺。顕本法華宗本山。妙塔山と号す。本尊釈迦多宝仏。開山は日什。日什は正和3年岩代国会津の生まれで,はじめ天台宗に属していたが法華宗に改宗。下総国市川の真間弘法寺,同国中山法華経寺で勉学し,永徳元年に上洛。活発な活動を行い,永徳3年には六条坊門室町に法華堂を建立し,康応元年にはこれを妙塔山妙満寺としたのが当寺のはじまり(日什自伝・日什御一期間記・日什門徒建立由緒など)。日什は明徳3年2月28日に没するが(本化別統仏祖統記),以後当寺は法華宗妙満寺派(のちに顕本法華宗)の本山となり洛中二十一か本山の中心として栄えた。応永2年に焼亡したと伝え,その後もたびたび兵火に遭って,綾小路堀川の西に移ったといわれ,「今尚云妙満寺町」と「山州名跡志」に見える。永正14年9月23日,妙満寺20世日崇は広橋守光の仲介を以って上人号の勅許を願い出,近衛尚通の執奏と尽力によりこれを許されている(後法成寺尚通公記・妙満寺文書)。天文元年には後奈良天皇の勅願所となったといわれる(法華霊場記)が,天台宗延暦寺衆徒による天文5年の法華宗寺院焼き打ち事件(天文法華の乱)によって焼亡してのち,和泉国に逃れた。天文11年の後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受けて旧地に再興。しかし天正11年の豊臣秀吉による洛中街区整理によって現在地に移転させられた。寛永10年11月28日の「妙満寺末寺帳」(諸宗末寺帳/大日本近世史料)によれば,当時東海道筋を中心に296か寺の末寺を抱えており,近世には京都法華宗16か寺のうち勝劣派に属した。寛永5年・天明8年・元治元年とたびたび焼亡したが,再興。明治期には末寺は550か寺にのぼった。寺蔵の紀州道成寺の鐘は,天正13年の豊臣秀吉根来寺攻めの時仙石権兵衛が道成寺で掘り出して妙満寺に納めたと伝える。昭和45年,中京(なかぎよう)区榎木町から現在地に移転。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7145801