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淀川
【よどがわ】


京都市南部を東西に流れ,大阪府で大阪湾に流入する川。通常,乙訓(おとくに)郡大山崎町の南方で合流する桂川・宇治川・木津川の下流部から大阪湾に注ぐまでを淀川と呼ぶ。本流中流部は宇治川といい,上流部は琵琶湖から流れ出る瀬田川である。建設省の指定では京都市伏見区の国道24号が通じる観月橋より下流を淀川と称する。古くは澱(よど)川と書くこともあった。支流をも合わせるとその流域は非常に広大で,淀川水系の木津川の上流部は三重県・奈良県に及び,桂川の上流域は京都府の南半部を占め,本流の延長75kmながら,総流域面積は8,240km(^2)に及ぶ近畿地方最大の大河川である。琵琶湖を水源とし,年間を通じて流量は豊富であり,古くから水運・漁業・灌漑の面で,また明治以後はさらに上水道・工業用水などの面で,その利用価値の大きさは,はかりしれないものがある。近畿中央低地一帯の文化はいわば淀川によって育まれたといっても過言ではない。古くは瀬戸内地方からの農耕文化の伝播経路にあたり,弥生時代の遺跡や大型の古墳も沿岸に点在している。古代国家の隆盛も淀川本・支流の水運抜きには考えられない。恭仁(くに)京・長岡京・平安京いずれも淀川流域が選定され,さらに間接的には難波(なにわ)京や平城京も淀川水運の便にあずかっている。長岡京の選地に際しては,「続日本紀」延暦7年9月の条に「水陸有便,建都長岡」と記されている。さらに平安京においては,淀は外港で,「延喜式」に「諸国運漕功賃,山陽南海諸国,海跡自国漕与等津,船賃石別稲若干束,自与等津運京車賃石別五升」とあるように,瀬戸内諸国からの貢納物が淀川を溯上し,与等(よど)津で陸揚げされたのち陸路によって京へ運ばれたのである。舟運は貴族にも利用され,宇治川の宇治津,桂川の梅津などが高野・熊野詣の際の乗船地となっていたことは「源平盛衰記」などにも見られる。中世を通じても淀川の運行は増える一方で,蓮如上人による浄土真宗の普及に大きな役割を果たしたり,荘園の運上米を目当てとした関所が次々に私設されたり,文化・経済面で多大な役割を果たした。関所は「蔭凉軒日録」によると,川口から京まで実に380か所を数えるほどであった。また淀川は何度かの流路改修をうけている。河道に対する最初の大きな人工的改変は,豊臣秀吉の伏見城築城に伴う宇治川の付け替えである。文禄年間に秀吉は普請奉行6人と約25万人の人夫を動員して,それまで巨椋池に流入していた宇治川を切り離し,北の伏見の台地下へ迂回させ,奈良への交通路を兼ねた槇島・向島の大堤防を造成した。これによって伏見への航路の確保と陸上要路の孤立化を同時にはかることができたのである。また,新河道が北へ溢流するのを防ぐために,伏見の西から淀の北まで約4kmの交通路をかねた淀堤を築いた。しかし,築堤により北側背後の条里水田地帯がかえって排水不良となり,浸水するなどの被害も出て,明治以後の改修で下流側約1kmほどが撤去され,現在は京阪電鉄の線路敷に利用されている。近世には淀二十石船と30石以上の過書船とが競うように伏見と大坂を往復し,最盛期の享保年間にはそれぞれ507艘・671艘を数えた。その盛行ぶりは「澱川両岸一覧」などの図誌類はもとより,しばしば上方文学の舞台にとりあげられるほどであった。明治になって桂川・木津川・宇治川の3川合流地点周辺が大幅に河道改修され,さらに昭和16年の巨椋池干拓竣工に伴い,流域の景観は一変した。また天ケ瀬ダム(宇治市)が建設されてからは古代から人々を悩まし続けてきた洪水の危険もなくなり,近年では高度な用水利用に伴う水質汚染が問題となってきている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7146889