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太平寺?
【たいへいじ】


旧国名:河内

生駒(いこま)山地南端部西麓の扇状台地上に位置する。地名の由来は,太平寺という名の寺があったことによる(聖徳太子伝私記下巻/柏原町史)。山頂から延びる小丘陵上には古墳中期から後期に至る古墳が群在し,太平寺古墳群の名で呼ばれる。「続日本紀」にたびたび見える智識寺は当地に建立されていたものと考えられ,同寺跡出土の葡萄唐草文鴟尾は国重文(柏原市史)。寺院太平寺について,「五畿内志」は智識寺の子院であったとするが,史料上の年代が異なるところから,別個の寺であったと考えられる。「経覚私要抄」文明3年正月16日条には,太平寺の宥智法印が巻数を大乗院へ送り,代わりに祝儀として油煙一挺と料足150疋を受けた旨が記されている。また長享3年4月の観心寺結縁灌頂米銭上下用帳(観心寺文書/大日古)によれば,観心寺は太平寺から灌頂に要する道具を借りていることがわかる。地名としての太平寺は,安貞2年11月8日の後堀河天皇宣旨(光徳寺文書/柏原市史4)に,光徳寺に寄進された300町歩の四至として「西限太平寺安堂境」と見えるが,本文書は検討を要する。なお地内の落合については,「南方紀伝」に「南朝元中七年〈庚午〉北朝明徳元年春,兵革山名・畠山与和田・楠於河内落合合戦,楠敗」とあり(柏原市史),河内の守護代遊佐国長は山名氏の援助で楠木軍を当地で破ったことがわかる。また天文11年3月飯盛城を根拠として北河内・大和一帯に勢力を振るっていた木沢長政は「落合上畠」で遊佐長教・三好長慶らと戦い,長政は討死にしている(足利季世紀/同前)。地内には小字上畑が残り,近くの小字キソドノ墓に近年まで木沢長政の墓と伝える五輪塔があった。
太平寺村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
太平寺(近代)】 明治22年~現在の大字名。
太平寺(近代)】 昭和41年~現在の柏原市の町名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7151093