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難波
【なんば】


大阪市南区・浪速(なにわ)区にまたがる南海電鉄難波駅を中心とした地域一帯の汎称地名。心斎橋筋や道頓堀・千日前界隈と一体になって大阪随一の繁華街ミナミを形成する。市内有数の交通の要衝でもあり,南海本線(高野線電車も乗り入れ),近鉄難波線,地下鉄の御堂筋線・四つ橋線・千日前線が集中するほか,多数の系統が発着する市バスのターミナルがあり,隣接する国鉄関西本線湊町駅をも包含する。当地は旧摂津国西成郡難波村で,地名は村名に由来するが,難波は古来「なにわ」と読み,浪速・浪華などとともに大阪の呼称の1つ。この「なにわ」が「なんば」となまって当地に残ったと考えられるが,吉田東伍はこれに疑義を持ち,縄浦(なわのうら)がなまったことに語源を求め,浪華とは語源が異なるとしている(地名辞書)。明和2年の町割りの結果,難波新地1~3丁目が生まれ市街化した。ここでは発展策として茶屋株・煮売屋株・旅籠屋株をはじめ人寄せの興行が許可され,次第に盛り場に育っていった。これは当時すでに歓楽地としてにぎわっていた道頓堀に隣接すること,今宮戎の参詣道に当たることなどの立地に恵まれ,また,享保17年に幕府の難波米蔵と米蔵に至る難波新川が道頓堀から開削されたことなどによる。明治以降の発展は,明治17年に阪堺鉄道(現南海電鉄)の起点難波駅が新地の南に開業したことに始まる。阪堺鉄道は都市間鉄道として成功し,それに伴ってターミナルは活況を呈し,道頓堀や千日前へ通じる道に商店街が発達,同30年に難波村は大阪市に編入された(第1次市域拡張)。また,同31年に難波米蔵跡に専売局の煙草工場が操業した。昭和10年に梅田~難波間に地下鉄(現御堂筋線)が,同12年に御堂筋が開通し,大阪ミナミの玄関口として急激に発展した。同7年に南海難波駅ビルの改築に伴い高島屋百貨店が進出,心斎橋筋に連なる戎橋筋商店街が都心商店街として成長するなど,キタの梅田と競い合いながら商業集積が進んだ。第2次大戦後,戦災を受けた煙草工場跡には大阪球場,難波駅前に南街会館,御堂筋に新歌舞伎座,新川町(現浪速区難波中3丁目)に府立体育館がつくられ,また駅前広場の下に大阪最初の本格的地下商店街ナンバ地下センターが誕生するなど,いっそう大規模な繁華街として発展した。さらに昭和45年の日本万国博覧会開催に伴う都市計画や民間投資によって大きく変わり,千日前通りが拡張され,頭上に高速道路が,地下に近鉄難波線と地下鉄千日前線が走り,道路下に川や噴水に彩られた延長800m,商店数306の大地下街虹のまちがミナミの新しい名所として登場した。また,昭和47~55年にかけて南海難波駅の大改造が行われ,同時にホーム下に延べ床面積約14万m(^2),商店数333店舗の地下街ナンバシティが誕生,繁華街が一挙に南に拡張した。しかし,繁華街ミナミ全体を眺めると,道頓堀以北の心斎橋筋が高級専門店の集中する都心型商店街の性格が強いのに対し,道頓堀以南の難波界隈は江戸期の新地に起源を持ち,明治以降も遊所としてにぎわった歴史を反映し(明治45年廃止),劇場・映画館・パチンコ店・飲食店などが集中し,歓楽街・盛り場の性格が強く,地域的機能分化がみられる。大阪の発展の方向が第2次大戦後北大阪に移り,キタが順調に発展を続けるのに対して,南・東大阪をヒンターランドとするミナミが相対的に停滞しているといわれるが,ミナミは歴史の新しいキタに比べて歴史的重層性を持ち,多様な顔を持つ庶民的な繁華街として依然大阪を代表する繁華街であることに変わりはない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7152386