忍頂寺
【にんちょうじ】

茨木(いばらき)市忍頂寺にある寺。高野山真言宗。山号は賀峰山。院号は寿命院。本尊は薬師如来。貞観年間,三澄の創建。神岑山(かぶさん)寺と号したが,同2年9月三澄の請願によって春は最勝王経,秋は法華経を講読する清和天皇の勅願所とされ,現寺号に改称(三代実録)。以後朝廷の帰依を受け,天暦7年4月に,当寺僧泰運らに不断の御修法(みしほ)を勤行させている(延喜天暦御記抄/大日料1-9)。平安末期頃,当寺は京都仁和寺の直末寺院とされる(茨木市史)。本寺の仁和寺が門跡寺院として発展し,加持祈祷により現世利益を求める貴族的な様相を呈していたのに対し,当寺は摂津国の山岳寺院の1つで,聖を中心とする浄土信仰の道場であり(同前),天承2年三善為康の「拾遺往生伝」(仏教全書107)に,当寺僧源因が極楽往生の期日を知るために念仏を修していたことを記す。当寺領は保安元年の摂津国正税帳(平遺補45)に「加挙本稲参万束」のうちわずかに「忍頂寺伍百束」と見え,創建当時の状態が推測でき,不足分を補うため当寺の周辺に寺田を開いていき徐々にその荘園化をはかり,仁治2年には大門寺・大岩・佐保・泉原・銭原・音羽などを含む「寺辺村(忍頂寺五ケ村)」を寺領とし,16町余の寺田から45石余の所当米を得ている(仁和寺文書/茨木市史)。当寺が仁和寺直末になるとともに,当寺周辺の荘園も仁和寺支配下に置かれた(同前)。仁和寺が当寺周辺の荘園化をはかった際,大規模な形で編入された佐保村有安名は当寺の堂社修造役を負担している(同前)。鎌倉後期正応年間以前から永仁5年頃まで,当寺をめぐって宗尊親王(鎌倉6代将軍)の母准后平棟子と大納言源通頼との間に争いが生じた(後深草院宸翰/茨木市史)。この争いは宗尊親王から通頼の父内大臣通成に預けられたと思われる当寺に属する所領か所職が原因となったと考えられるが,どのように展開されたかは未詳。最終的に幕府は後深草上皇に裁断をまかせている(仁和寺文書/同前)。南北朝期に入り,建武4年当寺周辺で中沢次郎左衛門尉佐綱という武士が乱妨をはたらき,仁和寺の支配が動揺。仁和寺は朝廷に訴えているが,翌年になっても好転はしなかった(同前)。正平7年3月,当寺による寺領管理を停止し,仁和寺が直接支配を行うべしとの命令が朝廷より下される(仁和寺文書/大日料6-16)。一方南北朝期に入ると他の摂津国寺院と同様軍事的拠点として利用されることになる。元弘2年12月16日付の僧日静書状(藻原寺文書/岩手県中世文書上)には「仁定寺に城墎を構へ,引籠り候を,宇津宮ついで責候」とあり,宇都宮氏が攻め落とした南朝方の城塞仁定寺は当寺のこととされる(地名辞書)。康安元年12月足利義詮は,佐々木治部少輔高秀を同国に派遣。高秀は当寺に陣をかまえており(太平記/古典大系),杜(森)本隼人允基がこの陣で戦功をあげ,同20日近江国の足利義詮の陣に参じたという(森本文書/後鑑)。戦国期,永禄11年織田信長は足利義昭を奉じて入京。摂津国を平定するにあたり,寺院勢力の抵抗を避けるため当寺などの諸寺に守護不入安堵の書状を発給(寿命院文書/茨木市史)。翌12年には将軍義昭の御内書と信長の安堵状が当寺住僧宛に出され,重ねて守護不入の権利を安堵している(同前)。高山右近(友祥)の治政下においても当寺は保護されており,五ケ荘の百姓が「忍頂寺領の事,諸成物等,先々の如く,寺納せしむべく候」と右近に命じられる(同前)。五ケ荘とは清坂・銭原・下音羽・上音羽・忍頂寺・車作・安元・生保・大門寺・大岩・泉原・高山・千提寺の地域をさす(茨木市史)。しかし元禄5年作の「賀峰山忍頂寺縁起」では右近が当寺の年貢を押領し,仏像を破壊,諸堂を焼いて住僧を追払ったと伝える(同前)。江戸期寛永年間石橋院主栄尊が勧進して再興。元禄期中興3世宥信の代に大いに栄えたが,以後寺運は再び衰え,現在本堂のほか2,3の堂宇を残すのみ。境内には元亨元年在銘の石造五輪塔(府文化財)がある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7152721 |