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円山川
【まるやまがわ】


但馬の中央部を北流する川。円山川本流の流長68.0km,認定本支流流長486.8km,流域面積1,300km(^2)。中国山地の分水嶺,朝来郡生野町太盛山の西方,円山(640.1m)に水源を発し,朝来郡朝来町・和田山町,養父(やぶ)郡養父町・八鹿(ようか)町,城崎(きのさき)郡日高町・城崎町を貫流して,豊岡市津居山で日本海に注ぐ。上流から朝来川・蓼(たで)川・気多(けた)川とも呼ばれている。支流には神子畑川・大屋川・建屋川・八木川・稲葉川・出石川・太田川・六方川・奈佐川などがある。生野・和田山間約30kmは円山断層谷を流れ,和田山は古生代の2億年以前の地層を持つ。下って,八鹿(ようか)累層は2,500万年前,豊岡累層は2,000万年前と,下流へ新しい地層を堆積して流れた。豊岡低地は流域中最大の沖積平野であり,かつての蛇行跡を地形図から明確に読みとれる。最下流部は,城崎(きのさき)の旧名湯島・桃島の地名にもみられるとおり,沈水谷が上流からの堆積物により陸化した若い沖積平野である。この湿地帯を利用して,長さ3m近いコウリヤナギ栽培が江戸期から行われ,特産物行李を産み,現在のカバン産業の成立につながっている。また,河口近くに国天然記念物玄武洞がみられる。流域は山地面積が85.8%を占め,杉・檜の植林地を多く見ることができる。平地は12.3%とわずかな面積の谷底平野と沖積平野が米の単作地帯として利用されている。河川勾配は,上流部が60分の1~70分の1,下流部が1,400分の1,特に,河口から13.4km遡上した豊岡市街で標高6mしかなく,下流部の緩やかさを特徴とする。満潮時には日本海の海水が豊岡市街付近にまで及び,ボラの姿を見たり,時に,上水道に海水の混入がある。下流部の河幅は200~300mに及び,この広大で緩やかな川が,古く,神功皇后の朝鮮出兵伝説の船出の地として「御船が岡」(八鹿町)の伝えがあり,出雲大社の「寛文造営記」には,妙見杉の寄進に対し大社から妙見山名草神社へ三重塔を寄進した記録がある。この時,八鹿町寄宮の船着場が使われた。近世中期以降には西回り海運が盛んとなり,豊岡市小島・瀬戸・津居山の回漕地の発達に伴い,享保年間には円山川・市川を結ぶ回漕路が開かれ,高瀬舟75艘が往来した記録がある(但馬史4巻)。近代になって,山陰線の開通,自動車輸送の発達に伴って,逐次,姿を消した。現在,河口港として津居山港の利用がみられるのみである。この但馬の大河は,洪水・治水史の川でもあり,江戸期より多くの大出水の記録を見ることができるが,明治中期頃より本格的な河川改修の動きが始まる。大正9年内務省直轄工事として第1期改修が昭和11年にかけて,毎秒2,226t流量に耐える築堤工事を中心に行われ,昭和31年から第2期改修が建設省によって行われた。昭和34年の伊勢湾台風の時,毎秒4,435tの流量に及び大災害を引き起こす。現在,計画流量毎秒4,500tに設定し,築堤・内水処理(小野川ショートカット,樋門により),最下流部の中州(中之島・菊屋島)掘削により「人と水のたたかい」に終止符を打つべく努力がなされている。また豊岡盆地に発する霧の年間日数は120日に及ぶ。この霧づくりの主役が円山川であり,六方田圃の広大な湿田である。鮎の豊かな川であり八木太郎,大屋次郎の名で親しまれてきたが,近年砂利採取などによる自然破壊が魚影を少なくしている。鮭の遡上も見られたが,生野鉱山の鉱毒水を流すようになった明治末期から姿を消した。閉山後,再び遡上する姿がよみがえった。養父市場では用水を使って鯉の養殖が盛んで,支流の多々良木川には,昭和49年揚水式発電用の多々良木ダムが完成した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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