100辞書・辞典一括検索

JLogos

21

飛鳥岡本宮
【あすかおかもとのみや】


古代の宮号,舒明天皇の宮名。高市郡明日香村に所在した。舒明天皇は,2年10月「飛鳥岡」の近くに宮を造営して移り,「岡本宮」と称した(書紀)。地名と立地に由来する宮号である。舒明天皇8年6月,岡本宮は火災にかかり廃絶。天皇は田中宮・百済宮・廐坂宮と転々と移った。斉明天皇は,2年「飛鳥岡本」を宮地と定め,新たに宮殿を建てて移り,「後飛鳥岡本宮」と号した。舒明天皇を高市岡本宮御宇天皇(万葉集485~487),斉明天皇を後岡本宮御宇天皇というのは,宮居に由来する。「書紀」によると,後飛鳥岡本宮は斉明天皇2年中に災したとあるが,被害は一部であったと思われ,遷都のことは見えない。斉明天皇のあとを継いだ天智天皇も,6年3月に近江大津宮に移るまでここに宮居を営んだと考えられる。壬申の乱の直後,天武天皇は元年9月に飛鳥の倭京に帰るや,ただちに島宮に入り,3日後岡本宮に移り,ここを宮居とした。この年,新しい宮室を岡本宮の南に営み,その冬に遷居する。これが飛鳥浄御原宮である(書紀)。斉明天皇の後飛鳥岡本宮は天武天皇の時代までなお旧態をとどめ,浄御原宮の造営中にも存在したことになる。また,この記事によれば,島宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮は異なった場所に営まれたこと,岡本宮は天武天皇の飛鳥浄御原宮の北にあったことが知られる。「続紀」天平宝字5年正月丁酉条に,淳仁天皇が「小治田岡本宮」に行幸したと見える。小治田宮を「小治田岡本宮」とも呼んだことが知られるが,後飛鳥岡本宮との関係は不明。前後の岡本宮はほぼ同位置にあったと考えられるが,その所在地については,飛鳥浄御原宮所在地説とも関連して大きく3説がある。その1つは,飛鳥盆地の南部,飛鳥寺南方の低湿地の南で,飛鳥板蓋宮伝承地を含む一帯,明日香村岡を中心とする地に推定する説。飛鳥岡を飛鳥坐神社から岡寺にかけての丘陵の総称とし,その丘陵の西麓の低地に宮の所在を推定する。岡寺も飛鳥岡に基づく呼称とみる。飛鳥板蓋宮伝承地発見の上層遺構を飛鳥浄御原宮跡とみて,その下層で,北方寄りを飛鳥岡本宮跡とする。下層では,北寄りで掘立柱塀による区画をもつ宮殿らしい大規模な遺構の存在が確認されているが,下層遺構はさらに複雑に重層し,それぞれの年代もまだ明確ではなく,飛鳥岡本宮との関係を解説できるほど考古学的手がかりは整っていない。この地の東端下層で,「大花下」など位階を書いた木簡が出土。「大花下」は,大化5年2月から天智天皇3年2月までの間に施行された冠位名で,斉明天皇の時代の木簡である可能性が高く,岡本宮との関係で注目すべき資料である。なお後世の文献ではあるが,「扶桑略記」は皇極天皇の飛鳥板蓋宮は岡本宮と同地に営まれたと記す。第2説は,雷丘の東方,明日香村雷を中心とする飛鳥盆地の中央北寄りに推定する説。飛鳥岡は雷丘とし,「小治田岡本宮」の表現から飛鳥岡本宮は小治田宮と同所に営まれたとする。雷丘東方遺跡は奈良・平安期の小治田宮跡と確定したが,舒明朝・斉明朝の遺構はなく,考古学的証拠を欠く。最後の説は,香久山の南方,飛鳥盆地の北端に近い平地一帯,すなわち明日香村小山から橿原(かしはら)市南浦町にかけての地域に推定する説。飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮は,高市岡本宮とも呼ばれたことが文献に見え,大和国条里の路東高市郡28条4里が高市里であり,その11・12坪,すなわち大官大寺跡の東方に岡本田の小字名を残すことを大きな論拠とする。大官大寺は高市大寺を改称したもの。その高市大寺は高市里にあった斉明天皇の岡本宮を堂舎としたため,その名を号したという。大官大寺の東方で,奥山集落の北にある丘陵を飛鳥岡に比定する。しかし,この説も確かな根拠を欠く。天ノ香久山の南西麓から大官大寺西方にかけての地域では,厚さ0.6~1.5mで山土を盛り,平坦にならした南北330m・東西300m以上の範囲に及ぶ大規模な整地事業の跡が見つかっている。整地した時期は出土土器から630年代~640年代と判断がつく。また平成元年には,この造成地の東部で大規模な石組暗渠が発見されており,岡本宮との関連を解説できるほど発掘資料は整っていないが,7世紀前半を中心とした時期の何らかの宮殿との関連を予想させる。「書紀」によると,斉明女帝は盛んに土木工事を興したという。即位の年小墾田の地にわが国最初の瓦葺宮殿の造営を計画したが,用材が腐って中止したという。翌年には香久山の西より石上山まで渠を掘らせ,舟200隻を使って石上山の石を運んで,宮の東山に石垣を築いた。渠を掘るのに延べ3万人,石垣を作るのに延べ7万人の工夫を費やした。当時の人はこれを非難して「狂心渠」と呼び,有名な有間皇子事件の誘因になったという。このほか,大きな倉庫を建てて民財を集めたり,多武峰(とうのみね)に両槻宮・天宮とも呼ばれた観(たかどの)を建てるなど,次々と大規模な建築事業を興したという。飛鳥の水落遺跡・石神遺跡の発掘は斉明朝の都づくりが大規模で広範囲,かつ計画性の高い精緻入念なものであったことを示した。大石を大量に使う石張り工法の盛行も「書紀」の記事を裏付ける。石神遺跡は斉明朝の時期の宮廷饗宴施設であり,水落遺跡は同時期の計時・報時・天文・暦などの仕事を担当する役所の一郭である。岡本宮をいずれの地と考えるにしろ,役所や付属施設が斉明天皇が住まう岡本宮とは別の場所に設けられていたことになる。のちの藤原宮や平城宮のように,さまざまの役所を広大な同一区画の中に整然と配置する構造の宮は,斉明天皇の時代にはまだ成立していなかったといえる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7165198