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飛鳥浄御原宮
【あすかきよみがはらのみや】


古代の宮号,天武天皇の宮名。高市郡明日香村に所在した。壬申の乱に勝利を収めた大海人皇子は,天武天皇元年9月12日に飛鳥に帰り,いったん島宮に入り,3日後に後飛鳥岡本宮に移る。同年冬,同宮の南に,飛鳥浄御原宮を造営して移り住み,翌2年2月,ここに壇場を設けて即位する。朱鳥元年9月,天武天皇の崩御後,その跡を継いだ持統天皇は,同8年12月に藤原宮に遷都するまで,引き続きここに宮を営んだ。当宮の名は,「書紀」朱鳥元年7月条に朱鳥と改元するに伴い命名したとある。天武天皇元年条などに見える飛鳥浄御原宮の宮号は遡称である。この宮号は地名に基づかない嘉号で,飛鳥板蓋宮とともに飛鳥諸宮の中で特異な存在である。藤原宮遷都後,当宮の存続を示す史料はなく,宮が以後どうなったかは不明。天武天皇を飛鳥浄御原宮御宇天皇,あるいは飛鳥浄御原宮治天下天皇などと称するのは,宮号に由来する。「書紀」にはその構造をうかがわせる記述が多い。すなわち,新宮・旧宮の別が記されており,内裏・後宮・朝堂の区別がある。大極殿の名も現れる。西庁の名もみえ,朝堂が東西対称に配置されていたことが推測できる。そのほか,大安殿・内安殿・外安殿など,安殿と称する殿舎も多い。向小殿・御窟殿,それに南門・西門や南庭・東庭・西門の庭などの名がみえる。大射は南門・西門で行われており,特殊な井戸や白錦後苑と呼ぶ御苑もあったらしい。当宮は小墾田宮と同じような初期宮室の基本的構造を備えていたことが推測でき,次の藤原宮とも共通する施設の名が多くみえる。かなり整った宮殿であったらしいが,飛鳥の地形から考えて,限られた規模のものであったと思われる。民部省の庸を納める舎屋や神祇官など官衙の名も見える。所在地に関しては,文献史料が示すところによると,飛鳥岡本宮の南で(天武紀元年条),「真神原」にあり(万葉集199),東に丘がある(天武紀4年11月・11年8月条)ことになる。また,天武天皇の殯宮は宮の南庭に設けられたが,持統紀元年8月条に京の人たちが橋の西に来て天武天皇の死を悲しんで慟哭したとあり,宮は飛鳥川に架けられた橋の東,同川の右岸に位置したと推定できる。天武天皇の死を悼んだ持統天皇の長歌(万葉集157)に,天武天皇は生前,朝な夕なに「神岳の山の黄葉」をながめ楽しんだとあり,神岳すなわち飛鳥の神奈備山がよく望めることのできる所に宮があったことになる。この神岳は雷丘とする説と,橘寺の南方,盆地の南縁にあるミハ山であるとする説があり,後説が有力。「書紀」朱鳥元年7月条に,忍壁皇子の宮からの失火により民部省が延焼したとあり,民部省の建物が忍壁皇子の雷丘宮の近くにあったことが知られる。民部省がのちの平城宮などのように宮内にあったとすれば,当宮が雷丘付近にあったことを示す史料となる。宮の位置・遺跡はまだ確認されていないが,岡本宮の所在説とも関連して,現在大きく2つの説がある。その1つは,喜田貞吉が明治45年に提唱して以来の飛鳥寺北方説。もう1つは,飛鳥寺南方説で,飛鳥板蓋宮伝承地の上層遺構群を当宮跡とする説。飛鳥寺北方説は,旧飛鳥小学校の東方,石神遺跡を含む一帯を宮跡と推定する。飛鳥岡本宮の所在地を飛鳥盆地の北部に推定し,その南に当宮があったとみる。喜田は,文献に浄御原宮が飛鳥寺と同じ真神原に営まれたとあること,須弥山石・石人像の石造物の出土,石造物出土地の南接地にミカドの地名を残すことなどをあげ,推定の根拠とした。昭和4年と同11年に一部範囲の発掘が行われ,広範囲に広がる石敷施設を発見,浄御原宮跡説は有力視されつつあった。同56年以来,石神遺跡の性格を明確にする目的で奈良国立文化財研究所が継続調査に着手。同63年までに8次の調査を行い,複雑に重層する大規模な遺構群を発見した。石神遺跡一帯の遺構群の広がり,構造と性格の解明が進んできている。検出した遺構は大きく斉明天皇の時期(7世紀中頃から後半),天武天皇の時期,藤原京の時期(7世紀末)に区分でき,それぞれに細分期がある。7世紀後半,天武天皇の時期の遺構群の状況を中心に述べる。7世紀後半,飛鳥寺の西から北西の一帯において,諸施設の大改造がある。斉明天皇の時代から天智天皇が近江大津宮に遷都する頃まで存続していたとみられる水落遺跡の水時計建物とその付属建物,石神遺跡の饗宴場の建物,その間を区画する大規模な掘立柱塀などはすべて解体され,柱が抜き取られる。柱の抜き方には共通した特徴があり,これらを同時に解体したことは確実とみられる。水時計建物周囲の貼石構造物,饗宴場の大井戸や石組溝群もすべて埋め立てられ,機能を完全に終焉する。これは天智天皇による近江大津宮遷都に伴う解体撤去工事である可能性が高い。解体撤去後の跡地には,広範囲に改めて盛土整地し,その上に大規模な造営を行っている。まず,石神遺跡では,斉明朝の饗宴場の南限を画する大垣の位置を踏襲して,東西方向の大規模な掘立柱塀が築かれている。飛鳥寺の寺域北限を画する掘立柱塀の北9mにあり,これと平行して長く延び,全長80m分を確認。さらに東と西へ延びることは確実で,飛鳥盆地の東端から西端まで300m以上にわたると推定できる。飛鳥寺のすぐ北に接して大きく区画された一郭があり,この掘立柱塀はその南限の大垣であったとみることができる。大垣の北方は南北塀を数条配して,南北に細長いいくつかの空間を形成し,そのなかに廂のない南北棟を多く配する。南北棟総柱建物(東西3間×南北3~4間)を南北に3棟並べた空間もある。周囲に石敷を巡らした南北6間・東西3間の大規模な南北棟掘立柱建物があり,総柱建物を含めて同様の石敷を伴う建物が多い。建物のない空間地は石敷・バラス敷で舗装する。建物群は宮殿にふさわしい一級の規模と内容を備えている。これら7世紀後半の施設は,斉明朝の施設とは配置・構造ともに大差があり,それを改造した程度のものではない。この大規模な造営は,天武天皇による飛鳥還都後の飛鳥再建の大造営の一環であることは疑いないが,飛鳥浄御原宮跡の一郭なのか,ほかの施設なのか,確答はない。発掘遺構の配置はこれまでのところ,文献からうかがわれる飛鳥浄御原宮の中心部の構造との直接の関連はたどりにくい。官衙である可能性も残るが,むしろ天武紀にみえる飛鳥寺西の饗宴施設である可能性も強い。大垣の南,水時計施設の跡地にも数棟の掘立柱建物が立ち並ぶ。石神遺跡では,7世紀末にも天武朝の土地利用を大きく改める大改造がある。南限大垣をはじめ,掘立柱建物をすべて解体して,南北道路をつくったことがわかる。道路は全長130m以上を確認。道路の西には南北70.6m,東西33m以上の範囲を掘立柱塀で区画した一郭が形成された。天武紀の施設の性格は,7世紀末におけるこのような大改造の性格とあわせ解明を進める必要がある。一方,飛鳥板蓋宮伝承地の上層遺構を飛鳥浄御原宮の遺跡とする説は,近年多くの支持者を得て,有力視されつつある。上層遺構は内外二重の掘立柱塀で囲まれ,内郭とこれを大きく囲む外郭とから構成される。内郭は東西158m,南北197mの広大な範囲を占める。周囲の塀は幅5.5m,高さ0.2mの低い基壇上にたち,径約30cmの円柱を一列,約3m間隔で立て並べ,屋根をのせ,柱の間を壁でふさいだもの。内郭内部は東西掘立柱塀によって,南北約45mの南区画と,南北約150mの北区画とに大きく二分される。南区画では内郭の中軸線上に5間×2間の内郭南門,その北に7間×4間の四面廂付東西棟の正殿が独立して建つ。正殿建物は床張り。建物周囲は小砂利を敷いた広場となるが,その南前庭は幅約10mと儀式を行う場とすれば狭い。北区画は正方形に近い平面形の区画。なかは掘立柱塀によって,いくつかの小ブロックに分かれる。区画内には多数の掘立柱の殿舎が近接して立ち並ぶ。床張り建物が多く,建物と建物との間を全面河原石敷き舗装してあるのが特徴。東北隅には周囲に石敷をもつ大井戸がある。内郭はその規模・建物構造などから,内裏的性格の空間とする説が有力だが,中央部が未発掘で不明な点が残る。東外郭を限る塀は,内郭東限塀の東約106m(1町)の位置にある。盆地東縁の丘陵のすそに沿って南北に延びる。南・西・北を限る外郭施設は未発見だが,西限は飛鳥川右岸までとみられ,外郭の全規模は東西が約300mで,南北が320m以上に及ぶことは確かと思われる。外郭の中では,何棟かの掘立柱建物が発掘されている。外郭の規模は藤原宮や平城宮の内裏外郭の規模とほぼ同じ。内裏外郭には天皇の日常生活に直接関係する機関や太政官のような最高政務執行機関があったと考えられているが,上層遺構の外郭にも類以した機能をもつ施設が配置されていた可能性がある。内郭の東南に接する位置には,南北推定105m,東西約95mの範囲を掘立柱塀で囲んだ一郭がある。小字名をとって「エビノコ郭」と通称されている。南面中央と西面北寄りとに門が開く。区画内の中央北寄りには,桁行9間,梁行5間の「エビノコ大殿」と仮称する大型の四面廂付東西棟掘立柱建物がある。高い床張りで,正面の3か所に木造階段があり,建物周囲には河原石を敷きつめ,その外に砂利を敷いている。その規模は,藤原宮や平城宮などの中心となる建物,すなわち内裏正殿か大極殿に匹敵する。この大型建物の前面はかなり広い砂利敷の空間地となり,その東と西とでは2棟の南北棟建物が発見されている。この大殿を大極殿相当建物とみて,この塀で囲んだ一郭を朝堂院の機能をもつ場所とする説がある。未発掘地域が多く,一郭の規模,建物配置など明らかでなく問題が残るが,内裏を思わせる内郭と合わせて,上層の宮殿遺跡の中の主要部分を構成することは疑いない。東外郭の塀はエビノコ郭をも大きく囲んでいたらしい。この宮殿遺跡は全体として十数ha前後の規模となる。出土土器は7世紀第4四半期にあらわれ,同末の藤原京の時期に盛行する様式のものが主体となる。内郭やエビノコ郭の大垣や建物群は解体され,柱が抜き取られて廃絶する。だが,東外郭の塀は建て替えられつつ奈良期まで存続した可能性もあり,廃絶の時期や要因の詳細はまだ十分解明されていない。上層の宮殿遺跡については天武天皇が一時期住み,その後,その子の草壁皇子が住んだ島宮にあてる説と,天武天皇の飛鳥浄御原宮と考える2説がある。昭和60年,東外郭塀に伴う石組溝の下層から,1,082点の木簡が出土。辛巳年の紀年のあるもの,悲劇の皇子「大津皇子」の名前や「大友」「太来」の文字が読みとれるものなど,天武朝の歴史事実と関係する内容の木簡が集中する。これら木簡は上層宮殿遺跡の実年代の比定に有力な手がかりを与え,飛鳥浄御原宮説はいよいよ有力視されてきている。少なくとも,岸俊男が強調したように木簡出土地に近い所に,浄御原宮に付属する何らかの書記・書写を司る施設があった可能性は極めて高い。だが,上層遺構を浄御原宮跡とするには,それを決定する手がかりはまだなく,解決を要する問題も多い。天武紀にある「新宮」「旧宮」の問題とも関連して,造営着手から遷居まで2,3か月ほどの短期間であることから,従前から存した何らかの宮を利用・拡張した可能性を考える説もあり,上層遺構群の造営時期を前後2期に分け,前期を後岡本宮,後期を浄御原宮にあてる説なども登場している。遺構群の分期,各時期の構造の復原にもまだ多くの課題が残る。いずれにせよ,上層宮殿遺跡は飛鳥の宮殿の変遷と発展の歴史を解明する多くの鍵を秘めている。その性格・宮号を明確にするためには,石神遺跡をはじめ,飛鳥地方の同時期の遺跡の発掘を進めていく中で,その結果を総合して判断することが重要である。「書紀」に記載してある天武朝の膨大な官僚機構を飛鳥で発見された天武朝の遺構全体の中でどうとらえるかも,浄御原宮の位置比定,構造の復原と関連して大きな問題となる。浄御原宮を飛鳥寺の南と北のいずれに求めるにしろ,狭小な地形からみて,このような役所の施設がのちの藤原宮や平城宮のように広大な同一区画の中に整然と配置されていたとは考え難い。「書紀」によると,天武天皇5年頃から,「京」「京師」の文字がしばしば登場し,これを「倭京(やまとのみやこ)」と呼んでいる。天武朝には行政区画としての京,つまり明確な京域が成立していたことを示すものであろう。倭京の京域の範囲や構造は不明だが,藤原宮下層で発見された条坊制地割の建設は天武末年まで遡り,倭京に関係する可能性がある。倭京の実態はかなり具体的に把握できるようになってきたといえる。やがて,飛鳥浄御原宮・倭京は律令制に基づく中央集権国家の建設を推進する天武朝の宮都としては,不備なものとなり,天武天皇は日本最初の本格的都城,藤原京の建設を急ぐことになる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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