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春日
【かすが】


旧国名:大和

(古代~中世)大和期から見える地名。添上郡のうち。地名の由来は,神の栖む処すなわち神栖処(かすが)とする説,オオスカ・ヨコスカなどと同じく洲処(すが)とする説,カスはカサの転で「上手の方」という説,カスはカサ・カシ・カテなどと関連し,「崖地」の意とする説などがある(古代地名語源辞典・日本国語大辞典)。春日の字は「かすが」の枕詞「春日(はるひ)」をあてたもの。「春日なる羽易の山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰呼子鳥」(万葉集1827),「雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる三笠の山は色付きにけり」(同前2212),「我妹子に衣かすがの宜寸川よしもあらぬか妹が目を見む」(同前3011),「霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ」(同前1434)。①春日県。綏靖天皇の皇后五十鈴依媛は,「春日県主大日諸」の娘糸織媛であると伝承される(綏靖紀2年正月条所引一書)。これが春日の称の初見とされ,春日県主の本拠は,のちの添上郡春日郷を中心とする地域と一般には考えられている。しかし疑問とすべき点もいくつかある。第1に記紀には春日県について他に記載がなく,大和の六県にも加わっていないこと。第2に春日県がのちに十市県に改められたとする伝承が存すること(五郡神社記所引十市県主系図・久安5年多神宮注進状/神祇全書3)。第3に綏靖天皇は葛城に宮居したと伝えられ,一説に皇后五十鈴依媛は磯城県主の娘,河俣毘売(川派媛)と伝承されること(古事記綏靖段・綏靖紀2年正月条)などが指摘できる。以上によれば,春日県は六県の成立以前に磯城県や十市県の所在地である大和国中部地域に存在したとも考えられる。すなわち,春日県はのちに十市県に改められたか,あるいは春日県主氏が磯城県主か十市県主に系譜上で併合されたかのいずれかによって春日県はかなり早くに消滅したと推定される。②春日。春日の地を本拠とした豪族に春日氏がいる。同氏は,大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣などとともに,孝昭天皇の皇子天神帯日子命(孝昭紀68年正月庚子条には天足彦国押人命)を共通の祖とする和珥氏の一支族と伝承される(古事記孝昭段)。元来は和珥氏を称したが,のちにはその族長的地位に就いたらしく,春日和珥臣(雄略紀元年3月是月条),春日小野臣(雄略紀13年8月),春日粟田臣(孝徳紀白雉4年5月壬戌条分注)などの複姓が見える。記紀ともに欽明朝以後は和珥氏の称呼を用いず春日氏を称する。おそらく,欽明朝前後に族名を和珥から春日へと改氏姓し,その後さらに大宅・粟田・小野・柿本などの諸氏に分かれたと推定される。春日臣日抓の娘,糠子は欽明天皇妃となり(欽明紀2年3月条),春日臣仲君の娘,老女子は敏達天皇妃となるなど(敏達紀4年正月是月条),春日(和珥)氏からは多くの皇妃を出している。部民の春日部は天皇の母系氏族である春日臣の下に代々設けられ,この氏が領有・管理したらしく,名代・子代であるが,春日臣の部曲ともされる。春日部は美濃・上総などに分布し,阿波・肥後には「春日部屯倉」(安閑紀2年5月甲寅条)が存在し,伊勢からは「春日部采女」を安閑天皇皇后春日山田皇女のために献上したとある(安閑紀元年閏12月是月条)。春日氏の旧姓は臣で,天武天皇13年に朝臣姓を賜っている(天武紀13年11月戊申条)。「姓氏録」は左京皇別に「大春日朝臣」を掲げ,その家は富豪で,酒の糟を積んで堵とし,仁徳天皇がその家に赴き,その故に糟垣臣と称させ,のちに春日臣へ改めたとする。また,右京皇別には敏達天皇皇子春日王の後として「春日真人」が見える。大化前代に春日と呼ばれた地域は広く,和珥(春日)氏の全盛期には,「倭の春日に到りて,櫟井の上に食ふ」(允恭紀7年12月壬戌条)や「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ」(武烈即位前紀)とあるように,北は佐保(現奈良市法蓮町付近)から南は大宅(現奈良市山町付近),さらには櫟井(現天理市櫟本町和爾下神社付近)までがその勢力圏とされ,「春日の国」(継体紀7年9月条)と称された。のちに春日の範囲が縮小するのは和珥氏の衰退と関連する。開化天皇は「春日の伊邪河宮」で天下を治めたとされ(古事記開化段),都を「春日」の地に遷し,「率川宮」と称したともある(開化紀元年10月戊申条)。また,同天皇は「春日率川坂本陵」に葬られたとされ(開化紀60年10月乙卯条),「延喜式」諸陵寮には「春日率川坂上陵」として「春日率川宮御宇開化天皇。在大和国添上郡。兆域東西五段。南北五段」と見える。現在の奈良市内で,三条通りと油坂通りの間にある俗に弘法山と称される全長約100mの前方後円墳がそれに比定されているが,開化天皇の存在は疑問視されている。また景行朝には豊城命の孫,彦狭島王が東山道十五国の都督に任じられたが,「春日の穴咋邑」に至った時,病に臥して薨ったとある(景行紀55年2月壬辰条)。「書紀通証」は穴咋邑を「延喜式」神名上に見える添上郡穴次神社(現奈良市古市町)の地に比定する。さらに当地には「春日宮天皇」(続紀宝亀元年11月甲子条)や「春日宮御宇天皇」(延喜式諸陵寮)と追号された施基皇子(天智天皇皇子)の皇子宮も平城遷都以前に存在した(万葉集230~234・669)。その後聖武天皇の離宮として継承され,天皇の死後は東大寺領荘園となっていく(東南院文書正暦2年3月12日大和国使牒/平遺347)。史料上では「春日離宮」(続紀和銅元年9月乙酉条),聖武天皇の「別宮」(寛弘9年8月27日東大寺所司等解/平遺468),「高円宮」(万葉集4315・4316・4506・4507)と見えるが,いずれも春日野に存在した同種の施設を示していると考えられる。この離宮にはのちに東大寺へ勅施入される水田だけでなく「春日村常奴婢」も付属した(天平勝宝2年2月24日官奴司解/寧遺下,平城宮木簡1解説No.170,藤原宮木簡2解説No.787,奈良県教委藤原宮No.113)。和銅5年には平城遷都に伴い「春日烽」が設置され(続紀和銅5年正月壬辰条),春日の西端部は外京に含まれ,興福寺・元興寺などが造立された。天平勝宝2年孝謙天皇は「春日酒殿」へ行幸している(続紀天平勝宝2年2月乙亥条)。同8年6月9日の東大寺山堺四至図(荘園絵図聚影)には,春日山麓に神地が見え,のちに春日大社が鎮座する。③春日里。「万葉集」に「春霞春日の里の植子水葱」(407),「春日の里に梅の花見つ」(1434),「霞立つ春日の里」(1437・1438)と詠まれる。④春日郷。「和名抄」添上郡八郷の1つ。高山寺本は「賀須賀」,東急本は「加須賀」と訓む。宝亀3年8月11日大和国春日荘券(早稲田大学図書館所蔵文書/寧遺中)によると,出雲国員外掾大宅朝臣船人は「大和国添上郡春日郷」に所有する家地5段および檜皮葺板敷屋・草葺東屋・檜皮葺倉・草葺倉各1間を東大寺へ寄進している。また弘仁7年11月21日雄豊王家地相博券文(薬師院文書/平遺42)に,左京5条1坊戸主浅井王の戸口小豊王は当郷内に所有する家地を左京6条1坊戸主石川朝臣円足の京家と相替したとある。現在の奈良市春日野町付近に比定される(大和志)。⑤上春日里。添上郡京東条里5条5里の別称。弘仁7年11月21日雄豊王家地相博券文(薬師院文書/平遺42)に,「在大和国添上郡春日郷〈五上春日里五坪者〉」と見える。雄豊王は当地に地3段と墾田1段100歩を所有,東は並城王家西道,西は美濃女王家,南と北は公田に接するとある。また貞観14年12月13日石川滝雄家地売券(同前/同前166)にも,左京6条1坊戸主石川朝臣真高の戸口宗我雄一の男,滝雄は「東五条五上春日里□坪并四春日里卅二坪」に所有する家1区,地3段,墾田4段100歩,立物3間,檜皮葺屋1宇を銭28貫で実行王に売却したとある。その家地は,東は墾田東畔,西は春日寺田,南と北は公田に接していた。現在の奈良市白毫町に比定される(条里復原図解説)。⑥春日里。添上郡京東条里5条4里の別称。貞観14年12月13日石川滝雄家地売券(薬師院文書/平遺166)に「(東五条)四春日里卅二坪」と見える。現在の奈良市高畑町に比定される(条里復原図解説)。⑦春日荘。東大寺領。長徳4年諸国諸荘田地注文(東大寺要録6封戸水田章8)に新開発田并治開田として「春日庄田二町三段百八十歩」,また「大和国添上郡春日庄田六町二段大十四歩」と記す。聖武天皇の営んだ春日別宮の地にあたり,その没後,天平勝宝8年12月12日東大寺に勅施入されたと伝えられる(東南院文書/平遺347)。荘田は添上郡京東6条3・4里,7条3・4里に分布したといい,その地利は5月2日聖武天皇国忌御斎会料に充てられた(保阪潤治氏所蔵文書/同前468)。代々の国判によって領有を認可され,延暦8年にはさらに1町3段を勅施入されたらしい(百巻本東大寺文書/同前2156)。ほぼ現在の奈良市古市町の一帯に比定されよう。正暦2年には興福寺が京東6条3里,7条3里の8か坪に分布する荘田4町9段を菟足社田・観禅院田・高鷲寺田・勒道院田などと称して押領したため相論となり(東南院文書/同前346~350),寛弘3年にも「東大寺春日庄論」によって興福寺大衆が上洛して訴えたという(東大寺要録5別当章7)。ついで同9年には菟足社神主藤井朝高が東大寺僧規鎮と結んで前東大寺別当の大僧正雅慶に私領田を寄進して立荘した今木荘が当荘田の一部を不法に押領したものとして,東大寺と雅慶の間で相論となっている(東大寺文書・成簣堂文書・保阪潤治氏所蔵文書/平遺463~468・補157~163)。菟足社は当荘鎮守といわれ,現在の奈良市古市町の小字中今木周辺に鎮座した。平安後期の天治2年10月日付春日荘検田帳(東大寺文書/平遺2052)によれば荘田25町4段300歩(うち定得田16町9段120歩)で,所当米は50石8斗。田堵には興福寺寺僧が多い。保元~平治年間平清盛の主導で実施された大和一国検注でも当荘はその対象とされた(同前/同前3024・4877)。鎌倉期の建保2年5月日付東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録寺領章)には「春日庄廿五町〈所当段別現米一斗・比曽五支・縄五方也〉」とあるが,当時すでに興福寺寺僧や在地諸階層に押領されて一荘が有名無実となっていた。また,弘安8年8月日付東大寺注進状案(東大寺文書/鎌遺15650)には「一 春日庄事 右当庄者,当寺鎮守八幡宮祭礼之料所也」と見えるものの,やはり神役は欠如していたという。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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