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佐保山
【さほやま】


阿保山・奈保山を含む,佐保川北方に広がる丘陵地帯の総称。奈良市佐保山町を中心とし,西は佐紀丘陵に連なる。南西部に平城京跡・法華寺・海竜王寺,北部の小丘陵に佐紀古墳群がある。文武天皇夫人藤原宮子(佐保山西陵)・聖武天皇(佐保山南陵)・光明皇后(佐保山東陵)および元明天皇(奈保山東陵)・元正天皇(奈保山西陵)の陵墓所在地。奈保山も佐保山の一部で,北方に位置する。まず,元明太上天皇は養老5年,右大臣長屋王と参議藤原房前を召し入れ,「大和国添上郡蔵宝山」の北方,雍良(よら)岑に火葬し,他所への改葬禁止を遺言(続紀養老5年10月丁亥条),同年12月に至り崩御すると,遺詔に従って「大和国添上郡椎山陵」に葬られた(続紀養老5年12月乙酉条)。「扶桑略記」養老5年12月4日条には「陵高三丈。方三町也。自今以後。不作高陵」の注記がある。「延喜式」諸陵寮には「奈保山東陵〈平城御宇元明天皇。在大和国添上郡。兆域東西三町。南北五町。守戸五烟〉」とある。現在の奈良市奈良阪町養老ケ峰に比定される。次に,元正太上天皇は天平20年に「佐保山陵」で火葬され(続紀天平20年4月庚申条・12月甲寅条),2年後に「奈保山陵」へ改葬された(続紀天平勝宝2年10月癸酉条)。元正天皇は「葬奈保山天皇」(続紀宝亀8年5月戊寅条)とも称される。「延喜式」諸陵寮には「奈保山西陵〈平城宮御宇浄足姫天皇。在大和国添上郡。兆域東西三町。南北五町。守戸四烟〉」とある。現在の奈良市奈良坂町弁財天に比定される。天平勝宝4年,大内・山科・恵我・「直山」などの山陵に対し新羅王子来朝の状を告げさせ(続紀天平勝宝4年閏3月乙亥条),同7年には山科・大内東西・安古・真弓・「奈保山東西」などの山陵に遣使して聖武太上天皇の病気回復を祈請させている(続紀天平勝宝7年10月丙午条)。次に,文武天皇夫人宮子は天平勝宝6年に「佐保山陵」で火葬され(続紀天平勝宝6年8月丁卯条),「延喜式」諸陵寮には「佐保山西陵〈平城朝太皇大后藤原氏。在大和国添上郡。兆域東西十二町。南北十二町。守戸五烟〉」とある。次に,天平宝字4年,元正皇太后(藤原不比等の娘,光明子)を「大和国添上郡佐保山」に葬ると見える(続紀天平宝字4年6月癸卯条)。同年12月,皇太后宮(宮子)・皇太后(光明子)の御墓は以後,山陵と称し,忌日は国忌の例に入れ,式の如くに斎を設けることになった(続紀天平宝字4年12月戊辰条)。「延喜式」諸陵寮には「佐保山東陵〈平城朝皇太后藤原氏。在大和国添上郡。兆域東三町。西四段。南北七町。守戸五烟〉」とある。宮子の西陵とともに現在の奈良市法蓮町に比定されるが,具体的な位置は不明。最後に,聖武太上天皇は天平勝宝8年に「佐保山陵」に葬られ(天平勝宝8年5月壬申条),「延喜式」諸陵寮には「佐保山南陵〈平城宮御宇勝宝感神聖武天皇。在大和国添上郡。兆域東四段。西七町。南北七町。守戸五烟〉」と見える。現在の奈良市法蓮町北畑に比定される。さらに,藤原不比等も「佐保山椎山岡」(公卿補任養老4年)・「佐保山」(帝王編年記養老4年8月3日条)に葬られたと伝承されるが,「延喜式」諸陵寮は多武峰とする。また,聖武天皇皇太子の「基王」(紹運録)・「某親王」(帝王編年記)も神亀5年に「那富山」へ葬られている(続紀神亀5年9月壬子条)。「万葉集」によれば,大伴家持の妾も「佐保山」が「奥つ城」(474)とされ,弟の書持も「佐保山に火葬せり」(3957分註)とある。平城京北方の低い丘陵地帯は皇族・貴族たちの墓所とされていたことが知られる。「佐保山」は「大宮人の家」でもあり,山辺には尼理願が寄住した大伴旅人の宅があったことが「万葉集」に詠み込まれている(955・460)。また,佐保山は女性にたとえられ(1333),霞・雨霧や霍公鳥・呼子鳥が題材とされた。のちには紅葉が多く詠まれている(古今集265・281・361,新古今529)。なお,天平宝字6年,「佐保山馬庭坂」から白土30斛を運ぶ車10両賃として900文が計上されている(正倉院文書年欠造金堂所解案/大日古編年16)。佐保地区は大正12年,佐紀地区は昭和15年にそれぞれ奈良市に編入された。また,黒髪山から北の平城山一帯にアメリカ合衆国のディズニーランドに範をとってドリームランド遊園地が昭和36年に開園され,付近の景観を一変させた。




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「角川日本地名大辞典」
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